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夢とうつつを行き来して
過去のある出来事について「こうだったらよかったのに」と考えたり、「こんな風になったらいいな」と未来を夢見ることは、現実ではない世界を考えることでもある。
専門用語では、そんな妄想の世界を「可能世界」なんて呼ぶらしい。
昔の偉い人はこの「可能世界」をめぐってあれこれ議論をして、「いま目の前にある世界って神が選び取って現実になっているわけだから可能世界より現実世界が一番いいよね」とか「現実に私たちが起きたと思っていることって、可能世界では起きていないんだから、もしかしたら絶対的な真理じゃないんじゃないの」とか「可能世界は可能世界で、現実世界と同じような世界としてどっかにあるんじゃないの」とか、そんな調子で学問が発展していっているようだ。
ざっくりと分けると「可能世界」の考え方は、可能世界があるとする「可能主義」と、可能世界なんて頭の中で考えた妄想だとする「現実主義」という2つに分かれる。
そして、たぶん私たちの多くは可能主義と現実主義を行き来する力を、少しずつ失っている。
小さな頃は夢とうつつの区別もつかぬまま極めて自由に過ごすものだが、だんだんと大きくなるにつれて、現実がだんだんと目の前に迫るようになる。
そうして次第に可能世界を考えることができなくなって、私たちはバタイユの言う「やっとのことで再発見することができた子供時代」、すなわち文学を失う。
だからこそ大人になったとき、可能世界を考えるということは価値がある。小説を紡ぐべきだとまでは言わないが、「こうなったらいいな」という可能世界、もっといえば現実に対抗する”if”を思うことは、ときめきのようなものを持つ。
現実はある一つの選択肢を選び取り、全ての可能性を失った結果である。選び取る前に存在していた未来は、現実世界においてはその瞬間なかったことになる。そして大半の未来は人間の予測可能な範疇に収まる現実として世界に表れてくる。
すべての瞬間に無限の可能性があり、その可能性を一つを残してそれ以外を滅してきたのは、他でもないその可能性の一つとして選ばれた、現実だったはずだ。
それを時に「運命」と呼ぶ人がいるけれど多分そんなことはなくて、すべてが何らかの気まぐれに決まった「偶然」なのだろう。
偶然がいくら必死で化粧をしても、運命などという言葉には決してなれない。運命なんて、結果から見た現実世界の道筋でしかない。だから運命に至る道には、きっかけから今に至るまでのまっすぐな線が遠くから一本だけ貫かれている。
無限の可能性を考え、可能世界を思考することは、現実世界や「運命」に対するささやかな抵抗でもある。現実や運命は、可能世界が入り込む余地が幾分狭いように思う。
だからこそ現在に至る道と、過去あった可能世界がいくつも見える「偶然」という奇跡が現実に起きたことの美しさが私にはほのかに際立って見える。