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器のでっかい人になりたいものですね

娘が寝静まった夜にひとりでいるとき、忘れていた一日の疲労が肉体を蝕んでいることに気づくことがある。襲いくる眠気の中で肉体の動きが緩慢になっていくのを感じながら、こうした疲労感を世の中の大人が抱えていることを認識するようになった。

日常生活のなかで私たちはたくさんの人たちとすれ違っている。ある人は我先にと歩いていき、ある人は杖をつきながら歩いていき、ある人はベビーカーを押して歩いていき、ある人は仲間と談笑しながら歩いていき、ある人は携帯に夢中になりながら歩いていき、ある人は音楽を聴いてのんびりと歩いていく。
当然、名前も顔も知らない人ばかりであるが、それでも一人一人に日常があって、人生がある。

ふとした瞬間にそうした「名前も顔も知らない人」との接点が生まれることがある。歩いているときにぶつかったり、ちょっとした譲り合いの瞬間が訪れたりするときだ。
そんなふとした瞬間にその人の顔をちらりとみてみると、心底不快な顔をする人もいれば、頭を下げながら「スイマセン」と小さな声で言う人もいれば、疲労感の漂う顔でぼうっと歩いて行ってしまう人もいる。そんな一瞬にその人の人間性が映るものである。

大人になると様々な仮面を付け替えて過ごすものだ。ある時は親としてふるまい、ある時は上司として、ある時は部下として、ある時は気の置けない友達として、ある時は顧客に対峙する営業マンとして…とあげればキリはない。
器用に仮面をつけかえて過ごすのが大人ではあるけれども、突然訪れたほんの一瞬に人間としての一面が出る。疲労の色がにじむ瞬間とはその典型である。

いままですやすやと眠りについている赤ちゃんを抱っこしている親御さんに出会っても何を感じることはなかった。だが、いざ親になってみるとそのあたりの意識も変わる。親御さんを見てみると苦労のようなものが顔に刻まれているように感じることが増えた。

小さなころにはいくら顔を見てもわからなかったが、子供のころに思った以上に、大人は一生懸命生きている。時に「楽をしたい」という怠惰が己の中を駆け巡ることはあるけれども、それでも現実とうまく折り合いをつけながらなんとかやらざるを得ないわけで、意外に余裕がない。

そんな余裕のないなかで時間を見つけながらさらに何か努力をしている人もいるというのだから、そういう人には頭が上がらない。余裕がないならそれは単に自分の器が小さいだけであって、とどのつまり実力がないという話なのである。夜の訪れとともに私の体を襲う疲労感のなかで、もう少し大きな人―図らずしてそれは「大人」である―になりたいと思うばかりだ。

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