力の手加減、言葉の手加減
娘と遊んでいると、時折ものすごい力で鼻をつかまれたり、指をかみちぎらん勢いで食われることがある。
とても痛いのだが、別に怒るほどでもないので「いててて…」などと見事な大根役者っぷり全開の芝居をすると、娘はしてやったりと笑っている。
まだ1歳である、自分がやったことの重みがまだわからないらしい。
まともな大人は多くの人が「手加減」をすることができる。
それは物理的な力の手加減はもちろんながら、言葉の手加減もそうだ。
一方、子供は手加減を知らない。
娘よろしく何でもかんでも全力である。それがほほえましい時もあるが、一方でほかの子供を傷つけてしまうことにもなりかねないわけで、加減をすることができないというのは非常にリスキーでもある。
私たちが力の加減を知るのは、男児であれば実際に人に手を上げたときにわかる。子供同士の殴り合いの喧嘩なんかはその一つの例であろう。
人にぶたれて「結構痛いな」と思ったり、逆に自分が手を上げたときに相手が泣いてしまい痛そうな様子を見て「ちょっとやりすぎたのかな」と思ったり、自分がやりすぎたとは思っていなくても大人から叱られて「ああ、これはだめなのか」と思ったり、そのきっかけは様々である。
ただ、いずれにしても「自分が手を上げるか、上げられるか」の経験がそこにはあるものだ。一言で言ってしまえば、そこには「暴力の失敗」が存在している。
その暴力の失敗によって、子供は加減の何たるかをそれとなく認識するのであろう、と思う。
その力加減ができるようになっても、なかなかできないのが「言葉の手加減」である。
人にひどい言葉を投げかけて落ち込ませてしまったりすることは誰しもある。意図的にやって楽しむようであればそれは「いじめ」と呼ばれるわけだが、言葉の手加減は子供だけではなく、大人でもできないひとはできない。
言葉の手加減ができない人は、人との距離感を図ることがあまりできていない。
私自身、取材先の人に初対面で嫌味を言われ続けたことがあったが、あの時に「この人は言葉の手加減を知らない人なんだなあ」と思ったものだ。
私のことをバカな奴だなどといろいろ悪く思ったりするのは他者の勝手であるが、別に仲の良い友達でもなく、初対面かつビジネス上の付き合いがある関係という距離感がわかっていないからこういう事態になる。強い表現になるが、要は他者との間を測れない「間抜け」なのである。
別にその人に対して何を思ってもいいが、言葉を手加減しながら言葉を発することができないと人は自然と離れていく。だからわかっている人はちゃんと距離を詰めて親密な関係になった後に本音で相手に対して言いづらい指摘をしている。
しかし、考えてみれば「言葉の手加減」がいつできるようになったのか、力の手加減ほど鮮明な記憶がない。「言葉の手加減」のできない人間との出会いによって、私は言葉の手加減をするようになったのか。つまり、「言葉の失敗」に触れたかどうか、ということだ。
喧嘩の傷はそのうちに治るが、言葉は人を癒しもすれば殺しもする恐ろしいものでもあり、言葉が心に残した傷が癒える日は、時にやってこないこともある。刃としての言葉の一太刀を浴びせるまたは浴びたことなしに言葉の手加減ができないのだとすれば、それは言葉の実に残酷な面の一つである。