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霧の中で見た彫刻
箱根の森の中にあるポーラ美術館に行ってきた。その日は昼過ぎに箱根湯本駅で美術館行きのマイクロバスを待っていると雨が降り始めた。空が晴れているので最初は通り雨かと思ったが、まもなく来たバスに乗って向かっていると、次第に雲が広がり雨はしばらく止まない様子だった。
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到着して企画展やコレクション展を堪能していると、あっという間に夕方になり閉館時間が近づいていたので、目当てだったロニ・ホーンの彫刻作品を観るために美術館を出た。その彫刻は周辺の森の中にあるのだ。外は依然として雨が降っていて、いつの間にか霧が立ち込め少しひんやりとしている。借りた美術館の傘をさしながら、森へと続く道を歩いていく。霧の中、生い茂る濡れた草木や苔に囲まれていると、都市の生活で汚れた心が洗われるようだった。帰りのバスの時間を気にして早歩きで道を進んでいると少し息が切れたが、きれいな空気が体に入ってくるのが爽快だった。
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ルートの中間にさしかかったところで、歩道から脇にそれて、少し傾斜のある泥濘んだ土の上を滑らないように一歩ずつ踏みしめて進んでいくと、彫刻の前に辿り着いた。
胸の高さぐらいある、その大きな白い彫刻はコップのような形状になっており、中には水が湛えられていた。水の上には落ち葉や枝が浮いていて、雨粒によっていくつも波紋が生じては消えていった。外面の地面に近い部分は土で汚れており、なにか手入れが施されている様子はなかった。
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その彫刻には『鳥葬』という名前がついていた。鳥葬とは、火葬や土葬などと並ぶ葬儀のやり方の一つで、遺体を野に置いて鳥類に食べさせて葬ることを意味する。チベットやインドにおいて行われることがあるという。
対面して最初に私の頭に浮かんだのは、本来の「鳥葬」の意味ではなく、その二文字の漢字のイメージから、この彫刻の水の上に息絶えた一羽の鳥が横たわっている光景だった。それから、「鳥葬」の本来の意味において作品を捉え直した。この彫刻が、このように自然の中に野晒しに置かれて、いつの日か、百年後あるいは何千年、何万年後かに自然と土に還っていくイメージを想像した。そして、その大きな時間のスケールにおいて、この彫刻の前に立つ現在の私自身も捉え直した。まるで最初に頭に浮かんだ水上で息絶えた鳥の目を借りて、高い空から鳥瞰するように。そのようにして見た私はあまりにもちっぽけで微小な存在だった。同時に、この彫刻と対面しているこの時間、のちに繰り返されることない今に刻まれたこの瞬間の一回性にえもいわれぬ感動を覚えた。
人間は社会の中で個々に問題を抱え、苦悩する。遠くから見れば大したことないと言われても、日常生活の中でそのように楽観的に考え直すことは中々難しい。しかし、この『鳥葬』は、私を遠いところへと連れていき、世界をマクロな視点で捉えることを可能にする。それは私を狭小な社会から切り離し、広大な自然と同一化させることとも同義なのだった。
存分に彫刻との対話を楽しんだ後、その場を後にして帰路についた。駐車場付近に戻ってきて借りた傘を返却すると、より濃くなった霧の中、最終のバスがやってきた。座席に座り、窓から山道の木々を眺めながら考えた。あの作品は、無機質な室内にあったとしたら成立しなかったはずだ。自然の中にあるからこそ、『鳥葬』という名の意味を持つのだと。そして作品は未来に開かれていた。その名の通り、本当の意味で作品が完成するのは、やがて彫刻が朽ち果て土に還った時だろうから。そうやって私は悠久の時に思いを馳せた。