反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #5
06.相次ぐパイオニアの辞職
「開拓使官有物払い下げ」事件と村橋久成の辞職
「冷製札幌ビール」が第2回内国博覧会で「有効賞」を受賞した1881年(明治14)、開拓使がこれまで建設してきた工場や倉庫、農場、牧場などの”官有物の払い下げ”をめぐり開拓使内部で様々な動きが露見した年でもありました(「開拓使官有物払下げ事件」)
開拓使は1882年(明治15)で廃止になり、他の府県と同じく県庁が置かれることが内定していました。
何人かの開拓使幹部が一斉に開拓使を辞職して会社を作り、開拓使の諸工場の一括払い下げを受けようと画策していたのです。
その払い下げ価格は、大変な安さでした。
しかも、その背後には、村橋たち薩摩藩英国留学生を引率した同郷人・初代大阪商工会議所会頭の五代友厚がいました。
その頃、村橋は、札幌本庁の民事局副長や東京勧業試験場長を歴任して、開拓使幹部20人中の8番目あたりの地位にまで昇りつめていました。
官位は奏任官で権少書記官です。
そうしたさなかに、村橋久成は、1881年(明治14)5月、突然、開拓使に辞職願を提出します。
村橋が開拓使を去ったのは、この事件が巻き起こる直前だったのです。
彼は、官有物払下げについて全てを知っていました。
村橋にとって何よりも開拓使の廃止が許せなかったと思います。
北海道の殖産興業のために情熱を燃やして建設、そして順調に業績を延ばしている矢先に、ただ同然の安い価格で払い下げられることに我慢できなかったと思います。
払い下げの相手は、黒田長官の息がかかった開拓使の幹部であり、上司や同僚でした。
開拓事業を私物化しようとしている黒田や五代ら故郷鹿児島出身者への失望もあったのでしょう。もしかすると、これが最も大きな要因だったかもしれません。
開拓使の廃止は、政府部内の藩閥争いに巻き込まれた結果でもあったようです。
村橋には、そうしたことへの憤りや不満、虚しさもあったのでしょうか。
村橋久成は開拓権少書記官という高い地位とともに、故郷も家も家族さえも捨て、いっさいの自分自身も捨て去って、行く当てのない放浪の旅に出てしまうのです。
こうして村橋久成は、開拓使を去り、やがて歴史の舞台から姿を消します。
「ラスト・サムライ村橋久成」の死
11年後の1892年(明治25)10月、新聞「日本」は、村橋久成の死亡記事を掲載します。
村橋久成は、最後まで自分の意思を守り続けようとしたのか、何も語らず、確かな素性さえも明かさずに死んでいきます。
1892年(明治25)9月28日死亡。享年53歳
戊辰・箱館の戦乱をくぐり抜けてきた壮絶ともいえる”ラスト・サムライ村橋久成”の反骨の死でした。
新聞で村橋の死を知って衝撃を受けた黒田清隆逓信大臣は、県知事や政府の要人となって活躍している旧友たちに知らせ、神戸で仮埋葬された遺体を東京・青山に搬送し、自ら主導して葬儀を行いました。
遺体搬送は、村橋の旧部下の加納通広、葬儀会計は、元同僚の湯地定基貴族院議員(妹は乃木希典夫人)が担当しました。
村橋久成のさすらいの足跡
村橋久成が開拓使を去ってから神戸で発見されるまでの10年以上、彼は、いったい、どこで、どのような気持ちで国内を”さすらって”いたのでしょうか。
個人的にも知りたいと思います。
しかし、空白の10年間を完全に埋める資料は発見できませんでした。
ただ、ある資料では、1881年(明治14)5月に開拓使を去ったあと、山田慎(1851~1917)が開拓使から土地の払い下げを受けて北海道・知内に設立した「知内村牧畜会社」で社長を務めたという記録があります。
しかし、翌年の1882年(明治15)3月に病気の為に辞職しています。そのあとの社長には、山田慎が就任し、のちに「山田農場」「知内農場」と名称が変わります。
社長を辞めた村橋久成の足取りは、翌年、1883年(明治16)2月、明治宮殿造営の皇居造営事務局准判任御用掛となりますが、翌年の2月には退任します。
それ以降の村橋の足取りは不明です。
そして7年後の亡くなる前年にあたる1891年(明治24)5月、村橋は、神戸市中央区の湊川神社に宮司 折田年秀(薩摩藩の仲間)を訪ねています。
ここでどのようなやり取りがあったのか残念ながら、それを知る資料を発見することはできませんでした。
そして翌年9月、神戸市内で倒れているところを警察官に発見されることになるのです。
その後の醸造所
中川清兵衛は、村橋久成の開拓使の突然の辞職に一時は茫然としましたが、自分がいなければ北海道のビール産業は成り立たないという誇りと責任感に動かされ、再び立ち上がります。
村橋久成が開拓使を去ったあと、「開拓使麦酒醸造所」は、名称や経営者が変わっていきます。
1882年(明治15)3月、開拓使廃止と同時に農商務省工務局所管となり北海道事業管理局札幌工業事務所の管理下に置かれ、1884年(明治17)に「札幌麦酒醸造場」と改称されます。
その後、1886年(明治19)1月、新たに設立された北海道庁の所管となり同年11月、民間企業である大倉組の大倉喜八郎(現:大成建設/1837~1928)に払い下げられ、官営ビール事業は民営化された「大倉組札幌麦酒醸造場」として新たなスタートを切ります。
当初、道庁から中川清兵衛にビール製造に詳しいので払い下げの話が持ち掛けられます。
しかし、彼は、「こんなものを貰ってもしょうがない」と断ったと言われています。
大倉喜八郎は、二度に渡り西欧のビール事業を実際に視察した経験がありました。
それが理由かは分かりませんが道庁からは、ケタはずれな好条件で払い下げられたといいます。
さらに翌年1887年(明治20)大倉は、醸造場を政財界に多大な影響力を持つ渋沢栄一(1840~1931)や浅野総一郎(1848~1930)、西川虎之助(1855~1929)らの”渋沢グループ”に事業を譲渡してしまいます。
大倉は、ビール事業をより確実なものにしたいと考えていたとも言えますが1年で転売するということは、最初からビール事業に目をつけていたわけではないようです。
同年12月に大倉自らも経営に参画して、新会社「札幌麦酒会社」が設立、これによりビール産業が大きく飛躍する基礎が確立することになりました。
1893年(明治26)「札幌麦酒会社」は、「札幌麦酒株式会社」へ改称されます。翌1894年(明治27)同社の取締役会長に渋沢栄一が就任します。
ドイツ人技師と中川清兵衛の辞職
中川は、札幌麦酒会社が設立された後も、醸造人としてビール造りを続けます。彼は、あいかわらず”非熱処理製法”にこだわり、品質改善に全力を傾けていました。
1887年(明治20)札幌麦酒会社に北海道庁から醸造改良の監督に本場ドイツからマックス・ポールマンという醸造技師が送り込まれ、中川の手助けとします。
中川は、ポールマンに「この10年間、どれほど努力してもビールが瓶から噴き出したり、瓶が破裂するなどの事故に泣かされている。どうか、ご指導をお願いします」と言いますが、ポールマンは、この中川の言葉には耳を貸しませんでした。
ポールマンは、この問題が、ビールを瓶に詰めた後に”熱処理”するだけで解決することを知っていたので、最新技術の低温殺菌法で簡単に解決してしまいます。
1888年(明治21)8月、「サッポロラガービール」が発売されます。
ラベルには、「DAMPF-BIER」と表示されていました。
この「DAMPF」とは、ドイツ語で”蒸気”の意味。つまり、”熱処理”したビールのことです。
熱処理ビールの利点は、瓶内に残った酵母を加熱して死滅させるので耐久性が向上し、長距離輸送にも耐えられるようになったことです。
ビールの販路拡大に大いに寄与したといえます。
また、札幌から東京までの輸送では、低温を保つため夏場は、氷と共に出荷していましたが、高価な天然氷を使わずに輸送できる熱処理ビールは、大幅な輸送コスト削減をもたらす結果になりました。
ポールマンは、自分の知っている熱処理ビールの最新技術を他人に伝授しようとはしない秘密主義者で独善家だったと伝わっています。
自分の研究室には、誰も入れないという徹底ぶりだったようです。中川がいくら教えを乞うても無視されるばかりでした。
さらに中川の日本人部下を足蹴にしたりしました。
その上、北海道産の大麦やホップを馬鹿にして使用しません。北海道の新しい農業を牽引するという開拓使以来の方針も無視します。
これまで地元と共に歩んできたビール造りは失われてしまいました。
そのため、二人の間には、溝ができ、やがて、それは、修復不可能なほど大きなものになっていきます。
1891年(明治24)、プライド、誇りを踏みにじられた中川清兵衛は、とうとう腹にすえかねて、心血を注いだビールの世界から身を引くことを決断し札幌麦酒会社を退社します。
まだ、43歳という働き盛りでした。
ポールマン技師にまつわるエピソードが伝わっています。
1894年(明治27)、渋沢栄一の勧めで上村澄三郎(1862~1941)が「札幌麦酒会社」の専務取締役として入社します。
上村は、のちに大日本麦酒の常務取締役に就任し、原料麦の改良や麦芽・ホップの国産化につとめることになります。
上村は、評判が悪かったポールマン技師を辞めさせるにも社内には他に技術者がいない(中川は既に辞職していました)ので部下の林源次郎に”ポールマンの技術を盗み取れ”と命じます。
その後の林の熱心な研究もあり、ポールマンを帰国させた後も支障なく醸造が続けることができたそうです。
次回は、ビール醸造界から去った中川清兵衛のその後の人生などをご紹介します。