見出し画像

シリーズ自己K発#10『SPECTATOR 自己啓発のひみつ』

自己啓発ってなんだろう

 2023年3月、古巣からの退職を決め、有給休暇の消化していました。書店に足を運ぶと、オレンジの雑誌が目に飛び込みました。なんと、SPECTATORが自己啓発特集を組んでるではありませんか?!ということで手にとったのが、『SPECTATOR自己啓発のひみつ』(赤田祐一編、幻冬舎、2023年)です。この連載の締めくくりにご紹介します。

自己啓発本のルーツ

 自己啓発本のルーツ、それは1776年に独立宣言したアメリカにあると言います。

草創期のアメリカはチャンスの国だった。たとえ貧しい境遇から出発しても、強い向上心があれば成功して偉大な人物になれる可能性が社会に満ちている。広大な国土においては、お互いが見知らぬ人というのがアメリカ人の人間関係の出発点となった。社会で成功するためには他人を動かす力を得ること、競争して勝つこと。そのため、どうしても自己表現のメソッドが必要となった。(中略)大切なポイントは夢の追求、可能性の追求で、自助努力さえ惜しまなければ出自を問わず誰でも経済的に成功や物質的追究の充足をおさめることができる。この成功哲学が以後の自己啓発本に影響を与え続けることになる。

前掲書 

日本における自己啓発のルーツ

 それでは、日本ではどうでしょうか。明治以降から始まり、近代化のタイミングと同じ。明治時代に入ると、鎖国が終わり、士農工商という身分制度が撤廃され、職業の自由が認められました。江戸時代から続いてきた社会の普通が明治維新で一変し、元武士も元四民も敷居がなくなり、いわばお互い知らない人同士になるという、創成期アメリカ的状況の到来です。

 明治時代、自己啓発を示す概念は書物とともに輸入されました。イギリスの作家サミュエル・スマイルズの"Selp-Help"を翻訳した、中村正直の『西国立志編』でcultureやcultiivationといった言葉の翻訳語「修養」です。修養では、歴史上の偉人や成功者の逸話から日頃の心構えを学んだり、目指すべき自己になるために読者したり、毎日少しでも貯金をし、心身を鍛えたりと、様々な実践が含まれる概念です。

 修養の歴史を辿ると、宗教と付かず離れずの関係にあると指摘されています。修養は教団の宗教とは異なる形態として坐禅や読経などを含め、宗教の一部を取り入れながら説かれてきました。また、修養がブームになったのは日露戦争後で、新しい時代を生きる青年たちの生き方の指針や心の拠り所を、僧侶や牧師、特定の宗派を超えて活動する宗教家が説いたそうです。

 先ほど登場した『西国立志編』を訳した中村正直も、明治の早い時期に西欧社会においてキリスト教の信仰が国家の礎になっていることを理解していました。また、夏目漱石の『門』にも登場する雑誌『成功』の創刊者も『西国立志編』に傾倒していたようです。ここでは自助的人物が理想され、貧困に負けない自助努力の姿勢が金銭的な成功と強く結びつけられました。

現代の修養

 さらに現在、SNSなど新しいメディアの出現や、AIの進化に伴い、修養がより商品化されていると言います。他人が修養している姿や目指すべきとされる理想像をより手軽かつ頻繁に見られるようになっていて、自分磨きの欲求をそそる情報が溢れているだけでなく、他者との違いも見えてしまうし、気にしてしまう。コロナ禍以降、オンラインで面談してくれるパーソナルトレーナーや個人事業主を支援する系の個人事業主の投稿がたくさんフィードに流れてきます。なんだか芥川龍之介の『蜘蛛の糸』で、釈迦の糸に登ってきた人たちが別の罪人たちに蜘蛛の糸を垂らしているようなウェブ時代を感じます。

 自分を高めたいと思って生きることは未来志向の明るい欲求ではあり、否めるものではありません。ですが、努力することが目的になると、努力し続け疲れ果ててしまうこともあります。

利用される自分磨きになっていないか。

前掲書

 SPECTATORのこの号には、ハッとさせられました。なんとなく勉強し、進学し、就職し、という人生を歩み、日々精進の気持ちで自己啓発に励んだ会社員生活でした。メタな視点で俯瞰してみると、会社員は自分で興した事業でもないし、自分の手応えと違うところで利益を追求することに意味を見出せなくなっていました。なんのための努力をしてきたのか、我にかえる気持ちになり、このシリーズを書こうと思ったのでした。

 これはきっとコロナ禍の流行熱だったのかもしれません。それでも、時代に流される個人を後世のため、記録に残しておくのも悪くないかと思いました。

いいなと思ったら応援しよう!