愛がなんだ 感想

3年前の感想なので、いまとはかなり違う考えの部分があります。

以下本文



読んでいるのが辛くて、途中でもう読むのをやめておこうかと何度も思った。テルコは、わたしだと思ったからだ。
帯の売り文句には「誰もが共感する完極の片想い小説」なんて書いてあったけれど、共感どころてはない。テルコの生き方は、わたしの生き方だった。


「好きな人ができたら、それ以外のことはどうでもよくなっちゃう」
「それって自分のことも?」

この会話は、テルコの生き方を非常によく表していると思う。
来るかわからない連絡を待ち、仕事もしないで会社でひとり時間を漬す。帰ってからもメッセージがないか携帯を確認しては切る。電話がきたらいつでもどこでも応答する。テルコのマモちゃんに対するこれらの行動は依存、どころか執着ですらあるだろう。間違っても「愛」では無い。第1、テルコはマモちゃんと付き合ってすらいないのだから。


それでもテルコは好きでいつづける。そんな執着まがいの愛もどきは一体、何なんだろうか。

わたしはそれがテルコの、またわたしの、唯一のアイデンティティなのだと思った。
自分を自分たらしめるもの。テルコにとってはそれがマモちゃんという存在なのだろう。マモちゃんだけが生きがいで、テルコを生きる意味なのだ。
だから願いが叶うなら、恋人ではなく「マモちゃん」になりたいし、他の男と付き合ってでも、マモちゃんの傍にいる道を選ぶのだ。だってマモちゃんが自分の人生から消えたら、自分を生きる意味を失ってしまうから。

そんな、スミレさん的に言うなら「何事も五周くらい先周って気を遣う系」のテルコやわたしは、そうでないスミレさんのような人たちからすると、「自分系」なのだろう。
五周くらい先周って、自分が傷つかないように気を遣う。自分が生きる意味を失わないために、マモちゃんを失わないようにする。「ひとのために生きる」と言えば聞こえはいいけど、自分が生きる意味をしっかり自分の中で持てている「ひと」からしたら、それはただの迷惑だ。

けれどテルコのすごいところは、冗談でも「死にた
い」とか言わないところだ。 「だって死んだらマモちゃんに会えないじゃん」 という理由はいかにもテルコらしいが、わたしはテルコほど辛さや寂しさに強くない。「好きな人の恋人よりも好きな人本人」になりたいけれど、それは別れが辛いからだし、好きな人の傍にいるために他の男と付き合うくらいなら死んだほうがましだと思う。
また、テルコのように好きな人のためい仕事をやめることもきっとできない。だって自分の生活が立ち行かなくなるから。ひどい矛盾だ。好きな人を失うくらいなら死にたいというのに、好きな人のために生活が危ぶまれるのはいやだというのだから。わたしはテルコよりずっと自分本位で弱い人間なのだ。


それでもテルコに共感するのは、テルコもわたしと
同じように、自分を大切にできていない人間だからだと思う。
テルコの部屋やその暮らしぶりから分かるように、趣味や好みもなく、好きな人のこと以外は自分すらどうでもよくて、自分がどう思うかではなく、他人にどう思われるかばかり気にする。
まず自分を大切にできていれば、叶わない恋に振り回されたりしないものだ。


だからわたしはテルコに、幸せになってほしいと思った。それは願いというより渇望だった。「幸せになりたいっすね」 ナカハラが言うと、「愛がなんなんだよ」と縋るテルコに泣いた。テルコは強いから涙を流さなかったけれど、きっとわたしと同じ気持ちだっただろう。

わたしはテルコにそっくりだからよく分かるのだけど、テルコが一番悲しかったのは物語終盤のマモちゃんの「おれ、山田さんの気持ちとか考えたことも無くて」という言葉だろう。
結局こちらがどんなに好きでも、向こうがこちらに心揺らぐことなど全くないのだ。そうであるにもかかわらず、わたしたちは決まってそういう男を、そういう男ばかりを、好きになってしまうのだ。


何度も携帯を確認してしまう姿に、何度も淡い期待が裏切られる姿に、それでも何度も「もしかしたら」を信じてしまう姿に、胸が締め付けられてくるしかった。身に覚えがありすぎたからだ。
だからこそ幸せになってほしい。幸せになってもらわなければ困るのだ。マモちゃんのことなんか綺麗さっぱり忘れて、執着も愛だと受け入れてくれるひとと結ばれて、いつかマモちゃんを好きだった日々を思い出して、そんな時もあったねと笑いとばして、テルコのような人間も幸せになれることを証明してほしい。

愛がなんだかわからないテルコと、テルコそっくりなわたしの幸せを、気付けばわたしは心から析っていた。

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