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なんだろうこの鬱屈した毎日は

なんだろうこの鬱屈した毎日は。

衣食住は満ち足りて、一応の不労所得を得て、徐々に膨んだ資産を株で運用し、利益を上げ、家族や友達にも恵まれ、自由な時間を十分に確保している。それなのに、どこか鬱屈して、根源的な部分が満たされない感じがする。
起きたいときに起き、食べたいものを食べたい量食べ、好きな本を読み、好きな人とデートする。社会問題にも関心をもつ。一時的に感情が高ぶり、コメンテーターのように無責任に批判だけすると、すっきりとした気持ちになる。その途端に忘却し、元の日常へと戻っていく。

なんだろうこの鬱屈した毎日は。

何か自分にとって大切にしなければならないものが決定的に欠けている。中ぶらりんの所在不明な時間だけが残酷にも過ぎていく。
時間ができたらやりたいことは山ほどあったが、どれもやりきれない。
観たかった映画を見ても、いつの間にか私の心はどこかへ遠く放り出され、エンドロールで我に返ってくる。その映画の内容をほとんど覚えていない。読みたかった本を読んでも、それを自分の血や骨にしようとか生の心で楽しもうという積極的な姿勢は現在失われている。本心から望んだ行動でないから、没頭することができない。

私は「ひま」なのだ。
誰からも私の時間を強烈には求められていない。

先日「恋愛における中毒性の正体」という記事を書いた。

恋愛では、あなたとの時間を強く欲してくれる人がいて、同時にあなたもその人の時間を欲す。誰かとの恋が「自分がここにいるその確かな理由」を与えてくれる。恋愛の最中では周囲のことなんてどうでもよくなる。世界中でどんなに悲惨な戦争が起こっていようが、友人に裏切られ絶望し、命を絶とうとしている人がいても、大好きな人とのセックスに夢中である。ある意味世界で最も利己的な2人ともいえるが、その瞬間にじめっとした鬱屈はない。その関係が中長期的にはうまくいかず、ひどく傷ついたとしても、それはその相手があなたにとって代替不可能で反復不可能な存在であったということ。その感覚を大切にしまっておけばいい。
と上の記事を書いたときはそう思っていた。

しかし、今の私はそのような恋愛に没入する準備ができていない。私の感情の波は極めてフラットに推移しているのだ。
「傷つく」「興奮する」などのわかりやすい変化があれば、自分も立ち位置も把握できる。しかし、今の私にはその跳ね返りがないため、「なんとなく鬱屈している」としか自分の心理状況を表現できない。

深夜私は西麻布のおしゃれなバーでカクテルを飲んでいる。隣にはセクシーな美女が座っている。彼女は女優で大きな撮影に区切りがつき、とてもリラックスしている。お酒と会話とともに夜はどんどんと深みを増していく。私の手はグラスよりも彼女の膝に触れる時間の方が長くなる。彼女は私の肩にしなだれかかり、恍惚な表情を浮かべ、熱い視線を私に向ける。バーを出ると私は彼女の腰を強く引き寄せ、近くの路地で熱い抱擁を交わす。そうして2人は六本木の灯りと一つになった。

こんな素晴らしい体験があったとしても、私はその瞬間の快楽に躊躇なく身を任せることはできないだろう。
この鬱屈をどうにかしなければ、セクシーな美女から求められてもそれは意味がない。

そこで心理学者のアルフレッドアドラーがいう「共同体感覚」が重要になってくる。2人の関係性だけでは解決できず、私を取り巻く共同体との関係性を改善する必要がある。様々な関係性の中で自分という絶対的な個を確立し、時に求め、時に求められなければいけない。私は共同体に目を向けることをせず、2人の関係のみに注目しすぎていたようだ。長年培ったその弊害を大量に心に抱えてしまったため、余白がなくなり、感情が動かなくなってしまった。
これは私にとって切実にそして迅速に対処しなければならない問題なのだ。

私の時間を求める人がいない状況(ひま)を打破するため、共同体を顧みながら、もっと自分の根源的な部分に向き合う決意をするべきだ。それこそ私が代替不可能な存在となり、強烈に人から求められることになる。そうすれば、私の毎日は心地の良い忙しさに満たされ、セクシーな美女から求められる準備ができるというわけだ。



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