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私たちの想像力を奪う広告

山手線をぶらっと一周乗ってみる。内周りでも外周りでも構わない。何も持たず、何の時間的制約を設けず、ただ乗ることを目的とする。ただ乗ることが目的であるため、1歩車内に足を入れた途端にそれそれは達成される。すると、隙間もないほど敷き詰められた日常にくっきりとした余白が生まれる。多くの人が乗り合わせた電車の中で私だけがひまである。何の拘束も所有もないため、周りを観察するほかなくなる。制約するものがないから、普段以上に敏感に周りが見え、次々と新たなイメージが生まれてくる。

沿線上に電車が走り、各駅で停まる。扉が開いて何人か降りて何人か乗る。人の移動が収まると扉が閉まる。そして車内には新鮮な顔が混ざり、走り出していく。

それぞれにはそれぞれの明確な目標がある。最適なルートで最短時間で帰路に着きたい人。取引先へ向かう人。不倫相手に会いにいく人。
「よくもまぁ、これだけ多くの人がこれだけ狭い場所にいて、それぞれの意思をもち、大きな衝突もなくうまく回っているものだなぁ。」と驚かされる。山手線沿線の車窓から見える景色は面白く、1駅移動すると街の表情は一変する。街の表情はその町にいる一人一人の表情の集合体のようだ。そしてここにはどういう人が生活しているのかと想像を膨らませるのは実に楽しい時間であった。

しかし、この私だけに許された行為をじゃまするものがあった。それは広告だ。広告は至るところに無遠慮に存在し、我々の景色の一部にしれっと収まってしまっている。私たちは広告から脅迫観念を植えつけられている。
「脱毛をしろ、投資をしろ、車を買え。そしたらオレたちが儲かる」という本音は巧妙に隠されている。
「今は男も脱毛する時代になっている。毎朝の手間もなくなり、女性にもモテますよ」と30万の費用対効果がよくわからないことをいう。スマホを見れば、画面の1部に広告が表示され、執拗に不必要な行動を促してくる。財布をバックの奥底に押し込んでも、広告は精神にじわじわと大きな不安を植え付ける。安心を買えると宣伝し、勝手に私たちの財布をカバンから引き出し、身銭を切らせる。バルセロナの擦りのような強引さは表面上隠されているが、行為自体に差はないのだ。もしろ、罪の意識がないという点で広告の方が悪質ともいえる。

みんな他の人のお金を奪おうと必死である。私たちの視界の1部を広告が占める未来もそう遠くないだろう。全てが合理化され、資本化された世界において広告は正当化されるが、非合理な私たちの想像は著しく阻害される。想像が失われた世界はひどく味気ないものだろう。文学もなく映画もなく芸術もないのだ。非合理性こそが人を人たらしめてきたのではないか。

気づけば山手線を一周していた。イメージの泉はとっくに枯渇し、他の人同様、私はひまではなかった。

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私は変態です。変態であるがゆえ偏っています。偏っているため、あなたに不快な思いをさせるかもしれません。しかし、人は誰しも偏りを持っています。すると、あなたも変態と言えます。みんなが変態であると変態ではない人のみが変態となります。そう変態など存在しないのです。