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タカシ【chapter40】


「パサパサしてる」

一口噛み、口に入れると咀嚼する毎にそれは口内の水分を吸収する。なんとか噛みやわらげ、喉に押し込むが、「喉ごしが悪いとはこのことか」と思わざるをえない触感で喉につまる。救いを求めすかさずコーヒーを一口含むと、ようやくそれは腹に落ちていく。

タカシは、ソノコが、

「これ今すごい人気のパンなの。すぐ売り切れちゃうの!」

と嬉しそうに買ってきたパンを食べている。それにしても、この説明の一番伝えたいことはなんだろう。

「低カロリーでどっしり!!全粒粉100% !!レンゲハチミツのフレーバーがドリームテイスト!ウォールナッツ&カレンツたっぷり!!」

その文言の横に「今だけ!!」という吹き出しがついている。何が「今だけ!!」なんだろう。タカシは、パンの説明文をまじまじと見つめる。

休日、晴天のダイニングテーブル。

「換気をする」

とソノコが盛大にあちこちの窓を開けた。とても寒い。タカシはいま食べているパンの袋の説明に目をゆっくり走らせる。これで三回目だ、わからない、三回読んでもやはりわからなかった。何を伝えたいのだろう。

ドリームテイストという醤油製造メーカーの存在をつい最近テレビで知った。一見すると醤油とはわからないようなトリッキーなデザインのパッケージが、若い主婦やその子供の目に止まり爆発的に売れていると、テレビ番組で取り上げられていた。「たしか、意外な組み合わせだけれど、薄くスライスしたパンにモッツァレラをのせて水滴落とすと、新感覚のおいしさ。まさにドリームテイストと、芸人だかアナウンサーだか気象予報士が興奮気味にはしゃいで伝えていた」。つまりこのパンはドリームテイストとのコラボ商品なのだろうか。ということはこのパンには醤油が入っているのか?だから茶色なのか?いや、これは全粒粉のパンらしいから。そして低カロリーでどっしりとはどういうことなんだろうか。双方は相反するものではないのだろうか。

タカシはますます混乱してくる。とりあえずわかったことは、ビックリマークの多使用とウォールナッツは胡桃、と表現しても良いのではないかということだけだ。

目の前でソノコが、ニコニコしながらパンを食べている。

「おいしい?」

タカシにたずねる。

説明を解読するのに意識をとられ、また飲み込むことに苦心し、味の情報が入ってこなかったことに気づく。タカシくんが好きそうなコーヒー。とソノコが入れてくれたコーヒーから、換気をしてすっかり冷えた室内の空気の中に、白い湯気がフワリと泳いで消える。確かに酸味が少なくておいしいと思った。

休日。

天気のよい穏やかな昼。

コーヒーとパン。

目の前に、ニコニコおいしそうにパンを食べるソノコ。タカシは幸せだと思う。とても。

「パン、おいしい?」

ソノコが再度たずねる。

タカシはとびきり穏やかな微笑みをつくりこたえる。

「すごくおいしいね」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「やっぱり夕暮れだ」

目覚めた時に孤独を感じるのは、朝ではない。夕暮れだ。灯りのついていない、薄暗くなった寝室のベッドの上でうつ伏せのまま、長い仮眠のあとのぼんやりとした頭でタカシは確信した。醤油入りの全粒粉パンに続き、幼少期の夏の夕暮れの夢を見た気がする。末端の細部がリアルであったから夢ではなく記憶なのかもしれないとタカシは考える。

夏休み。「宿題は午前中に済ませなさい。終わるまでゲームはだめよ」母親の声。ラジオ体操、祭り、プール、スイカ、弟と取り合う緑とピンクのそうめん、和室での昼寝、足元で寝ている弟。

北向の和室は真夏でも窓を開け放つと時々微かに風が通り涼しい。畳の上に直に寝ていたせいで頬に、何本もの畳のあとがついた。タカシは上半身を起こすとボンヤリと首を掻く。汗のせいかかゆい。窓の外は夜が忍び寄る、夕暮れ。灯りのついていない室内は部屋の隅が見えないほど暗い。眠気が完全に覚めたとたん恐ろしくなる。昼間ウトウトし始めたときは明るかった世界が、目覚めた時には暗くなっている。一人取り残された気がする。タカシの足元で複雑な体勢をして、まだ深い眠りの中にいるリョウに助けを求める。

「リョウくん。リョウくん」

暗闇の中では大きな声を出すのさえ恐ろしく、無意識に小声になる。弟が起きる気配はない。身動きすることさえ出来ず体を固くしていると、

「タカシ、リョウくん」

母がキッチンから呼ぶ。

「ごはんよ。起きなさい」

タカシは母の声を聞き安心したとたん、夕暮れの呪縛から解かれたように体が自由になる。

「リョウくん!おきて!」

リョウの体を揺さぶる。

タカシ、リョウくんおこして。再度母が呼ぶ。

「リョウ!くん!」

リョウの体をぐいっと押す。リョウはモゾモゾと体を動かしなにかゴニョゴニョ言っている。

「タカシ」

「なに?」

「おんぶ」

「やだ、じぶんであるいて」

「おんぶ!」

こういった場面で弟はぜったいに折れないことを知っているタカシは、

「んあー、はやく!」

リョウに背中を向けしゃがみこむ。今まで寝ぼけていたとは思えない身のこなしで嬉しそうに起き上がり、タカシの背中にしがみつくとタカシの首に汗でベタつく両腕を、ぎゅーぎゅーと巻きつける

「くび!くるしい!」

「はやく!はやくたって!」

足をバタバタさせタカシの体を蹴る。よいしょっ!と立ち上がる。

「はやくいって、おばけくる!おばけくる!」

叫ぶリョウを背負いタカシはキッチンの母を目指し走る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

タカシはごろりと体を回転させ仰向けになると天井を見つめ深く息を吐く。

料理が嫌いだった母が茹でたそうめんを思い出す。芯が残って妙に粉の味がするか、フヤフヤと歯応えがないかのどちらかだったそうめん。

朝から昼食を摂るのも忘れダイニングテーブルで仕事をしていた。集中力が切れ、疲労を感じ少しだけ体を休めるつもりがそのまま深く眠ってしまった。

ふとリョウくんはどうだろう。とタカシは想像する。リョウくんも夕暮れの孤独を感じているのだろうか。ソノコの笑顔が浮かぶ。

休日に昼寝をするタカシの寝起きの顔に近づき、

「おはよ」

とささやくソノコ。「ごはんよ」

夜に近づくある日の夕暮れ、タカシが昼寝からうっすら目覚めぼんやりしていると、キッチンから音が聞こえてくる。蛇口から水が落ちる音。冷蔵庫の扉が閉まる音。食器同士の当たる音。ソノコが夕食の準備をしている。すっかり暗くなった寝室に扉の隙間から、リビングの灯りが射し込む。ソノコがごく微かな音量で鼻歌を歌っている。

香ばしい匂いがする。ソノコは何を焼いているんだろう。お腹すいたな。タカシは幸せと安堵を感じもう一度目を閉じる。

幸福な二度寝から目覚める直前。クスクス笑い声が聞こえる。おはよ、ごはんよ。

「おなか出てるわよ」

ソノコがタカシのシャツがめくれた腹に唇を当てる。唇とかすかに漏れる息がタカシをくすぐる。タカシのまぶたにこめかみに頬に、唇をあてていく。

目を開くとタカシは、

「おはよ」

かすれ声でささやき微笑むソノコにキスをして、上半身を起こす。太ももの上にのせ首筋に唇をあてるとソノコの香水の香りがする。タカシはティシャツを脱ぎ長いキスをし、ソノコの服を丁寧に脱がしていく。真っ白な肌の柔らかい胸に唇をあてると温かく、生きている匂いを思い出す。出産祝いを届けたとき嗅いだ赤ん坊の匂い、旧友の妻が産んだそれを強引に渡され恐々抱いた。こめかみや頬や小さな耳、雛のような頭髪に鼻を埋めた時を思い出す。タカシの耳に唇をつけているソノコを包んで抱え、そっと雛を置くようにベッドに横たえる。タカシはソノコの笑顔を見つめると永遠を願わずにはいられなくなる。

しかしどうしても拭い去れない気持ちがある。ソノコがいる孤独と無縁の夕暮れは必ず、幾つになっても手を焼かせる三つ下の弟のことが、気にかかる。リョウくんは夕暮れの孤独をなんと言うだろうか。つい弟の心情に思いを馳せるのはタカシの長年の習性だ。

「考えたこともない」

と即答するだろうとタカシは想像する。しかし、その断定的な言葉の根本には、温かく繊細な美しい心があることをタカシは知っている。情に厚い男らしい人間であることも。

そろそろソノコが来る時間だろうか、とタカシは腕時計を見つめ、今日はそのまま泊まると言っていたことを思い出す。昼間は予定があるらしいリョウも、(再三、「ずいぶん伸びたわよ」とソノコからやんわり指摘されていたから、「伸ばしてるんだ」と苦し紛れの返答をしていたから、美容院に行くのかもしれない。デートか?)きっと夕方には来るだろう。

暗い部屋でタカシは天井を見つめる。心が重くなり体がベッドに沈んでいくような感覚を覚える。

気づかないふりをすることができない「それ」。いずれ必ずリョウと向き合わなければならない日がくることにタカシは気づいている。兄として。男として。その両方。ソノコの笑顔とリョウの仏頂面を思い浮かべタカシの気持ちはこの上なく沈む。

「私なら両方手放す」

タカシは三人で過ごしたいつかの夜、冷たく響いたソノコの言葉を思い出す。

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