
歌誌『プチ★モンド NO.123』 よみもの(エッセイ) ちいさな事件 大水 利之


ある日の夜、仕事帰りのスーパーでいつものように留学生のYさんのレジに向かおうとした。わたしは彼女のてきぱきとした仕事ぶりと愛嬌に好感を抱いていた。
その日は大雨で客はまばらだった。彼女が入口付近で手を振る男性に身振りで語りかける姿が目に留まった。薄汚れた作業着を着た年配の労務者風の男性が雨でびしょ濡れだよとでも言いたげにお道化た様で肩をすくめた。
男性は足早に見切り品コーナーに向かうと、割引シールが貼られた弁当と発泡酒を手に彼女のレジ前に置いた。わたしはその後ろに並んだ。
「雨で大変だったね」Yさんの問いかけに男性は「疲れたよ」と仕草で伝える。「おうちでお風呂にはいってあったまってね」Yさんが男性の顔を見ながらゆっくり大きく発話する。身振りでありがとうと応える男性は聴覚障碍者だった。
会計が終わり、男性は電子レンジで弁当が温まるのを待っていた。Yさんはわたしににこやかに挨拶し、商品のスキャンを始めた。と、店内にあーっとどよめきが。床に散乱した弁当を前に男性が困り顔で立っている。静まり返る店内。誰もその場を動けない。「大丈夫だから、今行くから」とYさん。店内放送マイクを手に「お客様が電子レンジ前でお困りです。スタッフは至急対応ねがいます」
男性は新しい弁当を大切そうに抱え、Yさんにお礼を伝えた。「明日もがんばろっ!」男性を明るく元気づけ見送るYさん。「おっちゃん、足元すべるよ。危ないよ!」何回も振り返り、店を後にする男性。外に出ると、いつしか雨はやんでいた。
(了)
初出『プチ★モンド 123号 秋冬号』(2024)プチ★モンド発行所
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