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魚を与えるより釣り方を



今回は少し番外編をお届けします。

私は幸いにして5年間、中学から高校卒業まで同じ生徒に学習を教える機会を持つことができました。
今振り返ってもその時間はとても濃密な時間でした。

その彼らが大学進学に向けて、着々と歩みを進めています。

そしてそれは誰に強制された道でもなく、また、もしかしたら諦めかけていた道です。



魚を与えるより釣り方を、とはよく言ったもので、私ももれず「釣り方」を教えようとしていたように思います。

しかしこのときすぐにある壁にぶつかりました。

しかもその壁は一人ひとり違っていたので、その壁の越え方も一人ひとりに変えるしかありません。


それは

①釣り方を忘れてしまう
②川の流れの変化に対応できない
③道具を持てない

といった壁です。

そう、釣るより、釣り方より、そもそも釣り方を身につけるのにつまずいてしまうのでした。


昨今の療育の場で【課題】とされているのはこの「釣り方の定着」です。
そして釣り方の身につけ方は残念ながら記憶力が悪い、柔軟性がない、運動能力がない、といった言葉で言い換えられています。

記憶力は劇的に改善しないし、柔軟性もすぐには身につかないし、運動能力は地道に積み重ねるしかありません。
この地道さは彼らにとって非常に苦しいものとなることがありました。


こうした壁は当然、私にとっても課題となりました。いかに克服させるかということを必死に探しました。
しかし結論からいうと完璧に克服することはやめました。それを目指すことは彼らにとって、成長よりも一層「自分はできないんだ。」という意識を植え付けてしまうのではないかと考えたからです。

教材や手法はもっと双方にツールとして「なじませる」「にじませる」ことで「克服」以上に成長を感じさせてあげられないか。

その1つとして私は「具体的に、わかりやすく、イメージしやすい形で」機能的な長所や短所を、それこそ障害特性と呼ばれるような機能についても本人にとってしっかり「能力」として理解してもらえるように伝えることに努めてきました。

それを私は思考回路の癖と位置づけ、微妙な傾向の程度を伝えていたように思います。


認知機能を始めとし、思考とは複雑な機能の組み合わせです。

ところが既存の枠では「記憶力」「応用力」「考える力」という、簡素な枠組みで解釈されてしまうため、実際に「力」をイメージしづらい。

これが彼らにとって、そして私にとって最も克服すべき課題でした。

つまり力を細分化し部分的機能に着目することで、考え方の癖を良い方向に持ち運びながら自信も持てるように働きかけていったのです。


例えば短期記憶は苦手でも反復を繰り返したあとの長期記憶保存はちゃんと働いてるとか、見た印象をエピソードとして語れるだけの場面記憶が強いとか、そういうことです。

私は昔から「能力的短所は性格的長所でカバーすること」に対して非常に疑問を感じていました。

「勉強できなくても性格が良ければ・・・」とか「技術がなくても愛嬌が良いから・・・」とか、そういったことは私にとって誤った比較表現に聞こえていたのです。

だから常に「能力と性格を比較してはならない」と考えていました。

だって能力がないと思いこんで自分を責めてしまうのですから。

勉強とは不思議なもので、細かい指示やページを指定したところでやるかやらないかは本人の意志である以上、やらなければ意味がありません。

でも結局、多くの人は勉強(少なくとも多くの人が考えている勉強の形式)が嫌いなのでそれは発達課題とはなんら関係がありません。
しかし実際に取り掛かってからの集中力や収集力、言語再生やイメージ想起といった学習機能について分かりやすくすることで開かれる道もあるということを、彼らは教えてくれました。

誰にでも学ぶ力はある。

これからもこのことを胸に、多くの人の学びを支えられたらと思います。

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