寂しさの考察①

いつも自分の中に慢性的な寂しさがある。

一人の時に寂しいのは割と良くある、だが友達といても寂しくなることがある。一番厄介なのは学校や会社にいる時に衝動的な寂しさに襲われることだ。叫び出しそうになってしまうのには参る。

この寂しさが自分の中に現れた正確なタイミングは覚えていないが、14歳の頃には確実に現れていた。その時の私はこの寂しさが人間の持つ普通の感情で、誰もがもっていて、単純でコントロールできると軽く考えていた。

しかし、この寂しさは誰もが持ち合わせている普通の感情ではないことに気付いてしまい、10年経った今でも寂しさはコントロールできていない。むしろ歳を重ねるにつれて寂しさは手をつけられないほど肥大している。

コントロールできなくなってどうしようもなくなった時の自分は、眠りの世界に逃げるか、外界からの情報と感情をシャットダウンしている。誰とも連絡も取らないしテレビを見て笑ったりひとりごとを呟いたりもしない。

今でこうなら、これから先の人生はどうなってしまうのだろうか?

これから先、新しく親しくなる友人ができたとして、人生を共にするようなパートナーができたとして私のこの感情を理解してもらえるのだろうか?私はうまく説明することができるのだろうか?

そしてまだ確信したわけではないが、この寂しさは楽しい、嬉しい、幸せというプラスの感情を餌に肥大化しているのではないかというのが私の現時点の考察である。

プラスの感情は寂しさを打ち消すのではないか?と思われているが、そうではない。あくまでもそれはプラスの感情と寂しさが同じグラフ上に存在する時の話だ。

寂しさとプラスの感情は同じグラフ上には存在しない。どんなに楽しい、嬉しい、幸せだと感じてグラフが右肩上がりになったところで、寂しさのグラフは別のグラフ上でプラスの感情のグラフよりも急勾配で右肩上がりになる。

寂しさを抱えたまま一生を終えるのもなかなか虚しいし、こんな小難しいことを考えながら生きていても人生は一回きりだしな・・・と思いつつ人には見せないように明るくいようと努めていた。いや、正しくはその寂しさから目を背けていたのだ。

寂しさから逃げてきた先に、星野源さんの「よみがえる変態」というエッセイと出会った。その中に夏休みというお話がある。その中で私が体感したような寂しさについての描写があった。

寂しさは死ぬまでなくならないだろうけど、この寂しさはその人にとってチャームポイントで友達なのだと。

その他にも『ネガティブになる人は暇なのだ』と教えてもらったことがある。確かに暇は脳内に余計な隙間を作る。その余計な隙間を埋めようと寂しさを引き寄せてしまうのでないだろうか。twitterでもネガティブな人は何かに没頭するのが良いとオードリーの若林さんが仰っていたとのツイートを拝見した。

確かに何かに熱中することは寂しさを和らげる。私もこうして毎日noteにその日に感じたことを投稿したり、趣味のオタ活を楽しんだりtwitterの趣味アカウントに感想を投稿してフォロワーさんと会話をしている。きちんと自分の感情を言葉にすることと外界の人間と繋がることは精神を安定させる。

それでも寂しさがなくなることはない。寂しさは今この自分である限り和らぐことはあっても消えない。ふとした瞬間に現れていとも簡単に私を支配する。

寂しさは人を孤独だと錯覚させる。その錯覚は人を死に追いやるほどの力を持つ。実際にこの寂しさから逃れたいがために、目を閉じて二度と目覚めなければいいのにと考えたこともある。

星野源さんのエッセイにもあったように、この寂しさは一生ものだろう。これから先幸せな出来事が起きたとしても、地位や名声を手に入れてもその何倍も強い力で寂しさは私に襲いかかってくるだろう。

人生を通して私は寂しさと付き合っていく方法を模索するだろう。

noteにこうして投稿することや、twitterの趣味アカウントで感想を呟いてフォロワーさんと共有することは私にとって一種のリハビリになっていると感じる。

今はこの2つが主に私の寂しさを和らげるリハビリになっているが、そのリハビリの方法が増えたら人生はもっと充実して寂しさの浸け入る余地はなくなるのではないのだろうか?

はたまた、そのリハビリの方法の増加とともに寂しさの急勾配はさらに角度を増すのだろうか?

その検証をするために、私は明日からも生きていくし、自分の寂しさと幸せの度合いについて考察していく。




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