人狼ゲームを嫌いになる背景
最初に断っておくと、私は他のボードゲーム同様に人狼ゲームも好きですし、楽しんでいます。タイトルはこんな感じですが、内容は人狼ゲームのゲーム性に対する自分なりの考察がメインです。人狼ゲームの紹介文として読んで下さい。
人狼ゲームのルールはwikiか何かをご参照ください(リンクすら貼らない雑さ)笑
究極的にはくじ引きゲー
人狼ゲームの最小プレイ人数は物理的には3名、ゲーム要素を楽しむなら5名、考察を楽しむなら7名以上くらいが目安かなと思います(主催によって幅があります)
さて、「究極的にはくじ引きゲー」の意味ですが、2つ意味があります。
1つは配役。これはカードを引いて決めるので完全にランダムです。
そしてこちらが本題ですが、もう一つの意味は狼である/ない要素と言うのはロジックだけで詰められない(疑おうと思えば疑えるし、信じようと思えばそれっぽくなる)ので個々人の感覚(≒勘?)に委ねられるということです。
しかし、勘で「このへんが当たりっぽい」とやるだけなら、阿弥陀くじで成否を決めるのと同じです。試しにぬいぐるみを相手に人狼ゲームをしてみたら、「単なるくじ引きゲー」と言う理由がお分かり頂けると思いますし、3人でプレイした場合も同じような印象を持たれるかもしれません。
いわゆる、運ゲー・ギャンブルの類です。一応断っておくと、これは結論ではありません 笑。
人狼ゲームは「人間」がやるからゲームになる
では実際にゲームとして成立させている要素は何か?それはプレイヤーが「人間である」という点です。人間自体には色々な要素がありますが、人狼ゲームの面白さに影響を与えるのは、各プレイヤーの価値観や常識といった、いわゆる「感覚」です。
例えば先ほどのぬいぐるみの例のように、誰もしゃべらなければ単なるくじ引きになるので、参加者はどうにか狼を探そうとし始めます。
そうして最初のアクションが起こると、その行動を狼っぽいと見るか、人間ぽいと見るかに個々人の判断が分かれます。また、その判断の仕方を巡って、感覚が合わない場合は疑いに、感覚が合う場合は信じる気持ちに転じていきます。失言をしない限り、疑わしい人の発言はどこまでも疑わしく、信じた人の発言はもっともらしく聞こえます。
失言によりその陣営が負けることもままあるため、人狼ゲームを避ける理由の一つに、「自分の失言によって負けるのが恐い」という内容が挙がってきたりします。
決定的な失言が無いことを前提にすると、この時の発言でロジカルに狼を見つけることは不可能ですが、参加者の中で「何を信じるか・疑うか・どちらとも決まらないか」という点で大まかにグループができていきます。この時、狼は仲間を知っているので、同じグループに居るか、別のグループに入るかで悩みます。これは狼側の選択です。この時どちらを選択するかは、その狼役の人がどちらが有利と考えるかという感覚に依存するので、判断は人によってわかれます(分岐例)。
また人間側も同様に、個々人の感覚に従って、「狼がばらけたか、同じ陣営にいるか」を推理します(分岐例)。
このように、人間がプレイすることにより、それぞれの感覚(価値観や常識といった、物事の捉え方)によって、完全にランダムとは言えない、若干の偏り(参加者の感覚のバラつきによるバイアス)をもって、分岐が繰り返されます。
結果、人間側プレイヤーに感覚のバラつきが小さく、なお且つ狼側プレイヤーの感覚にギャップがあれば、自然と人間側が結託して勝利することが増えます。しかし同時に、人間側プレイヤーの感覚が、狼側プレイヤーの感覚と近い場合は、狼の嘘や騙りが成功しやすくなります。
一方で人間側プレイヤーの感覚にバラつきが大きいと、人間たちはお互いを疑いあって狼有利になります。
つまり「感覚のバラつきや偏り」が背景にあるからこそ、人狼ゲームは勝敗が単なるくじ引きではなく、「参加者の感覚のバラつきや偏り(バイアス)を読みあう」というゲーム性を持ったものになっています。
ゲーム全体の傾向を端的に言うと(失言やミスが無い場合、)人間側は狼を探しつつも結果的には感覚の合わない人たちを吊っていく傾向になります。
狼側は議論を通して自分(たち)と感覚の近い人間を残し、その人間を騙すことによって、場のアドバンテージを高めていきますが、多くの場合役職者が名乗り出ているので、基本的には役職者から噛んでいくことが前提となります。
終盤が近づいてくると、村には感覚の近い人たちが残っていきますが、同時にさらに微細な感覚のずれが勝敗に影響してきます。騙し合いも純度を増してくるため、慣れてくると終盤の純粋な心理戦を楽しむプレイヤーが増えてくるような印象です(主として狼側が騙しのテクニックを披露し、人間側がそのトリックを見破るような構図が終盤の理想形と思われます)。
勝敗を握るのは参加者の感覚
この視点で人狼ゲームを見てみると、序盤は感覚の探り合い、中盤は狼の噛み先や占い結果という客観的事実が加わって行く中での騙しの展開、終盤は使用された騙しのテクニックを暴き、最終結論を出す。というゲームと言えます。
参加者の錬度が低いうちは優柔不断による感覚の見えづらさで吊られたり、ラッキーパンチが決まったりという運要素がかなり絡むので、そこでプレイヤーの実力と勝敗との間で不均衡が生じることもままあります。慣れた経験者ほど、この不均衡を不条理・不合理と感じてしまうこともあるようです。
「面白くない人狼ゲーム」の裏で何が起こっているか
ゲームに参加する人は皆勝ちたいと思うわけですが、上級者になればなるほど、純粋な心理戦としての人狼ゲームを楽しみたいという層が増えてくるように思います。
慣れたメンバーで人狼ゲームを繰り返すと徐々に共通の感覚が芽生えてくるため、感覚のバラつきが小さくなってきて、探り合いの純度が増していきます。それにより同一メンバーで人狼ゲームを繰り返すことによる楽しさは増していきます。
一方で、そこに初心者や違う場所で人狼ゲームを経験してきた人が入ってくると、多くの場合、”従来のメンバーとは感覚の異なるプレイヤー”として存在することになります。加わったのが上級者であれば、その場の感覚をくみ取り、臨機応変に対応できるので問題ないことが多いですが、初心者の場合はそれができません。つまり、早々にその人を吊りたい状況になるか、初心者だからという気遣いにより心理戦の純度が下がります。
そこで一部のプレイヤーの中で、純粋に感覚の探り合いと、騙しの見破りという心理戦を楽しむために、運要素(参加者の錬度が低いことによる感覚の見えづらさやラッキーパンチ)を排除したいと考える傾向が出て来ます。
さて、初心者や慣れないプレイヤーがいる場合、人狼ゲームから運要素を排除するにはどうしたらよいでしょうか?
それは、暗黙の内にそのメンバー内で築かれた感覚(=ローカルな定石)を前提として人狼ゲームを進めることです。
つまり、ローカルな定石を新たな参加者に教え込み、疑似的な”身内”プレイヤーにするのです。すると、見かけ上は感覚の近いプレイヤーによる人狼ゲームになるので、純粋な心理戦を楽しみたい人たちにとってのノイズが減ります。
やや批判的な筆致で書いていますが、新たに参加する人が右も左も分からない状態の場合、特定の人たちとの人狼ゲームを楽しむ場合にはローカルな定石を教えてもらってから始めるのは一つの方法だと思います。実際にそうやって人狼ゲームをはじめて、ずっと楽しんでいる人も多いと思います。
一方で、人狼ゲームの楽しみ方をその自由度に求める人、つまり参加者の感覚にバラつきがある前提で、それも一つのゲーム要素として楽しみたい人にとっては、この傾向は窮屈に感じられる可能性があります。
最も厄介なのは、「ローカルな定石を受け入れないプレイヤーに対して攻撃するプレイヤー」です。
前述したとおり、時にデメリットを生むこともあるものの、初心者が入っても楽しめるというメリットを考えるとローカルな定石自体はあって良いと思います。しかしそれはあくまでガイドライン(≠ルール)なので、採用するかどうかは(初心者であっても)プレイヤー自身が決めて良いものだと思います。
採用しないプレイヤーや上手く定石通りに動けないプレイヤーに対して、「それは普通のやりかたじゃない」「こうしないなら吊る」「なぜこうしないのか?」といった口撃をする行為だけは嫌ですね。ほんと、人狼恐怖症になる人が出てくるのでやめて欲しいです(切実)TT
良いプレイヤーの傾向
ローカルな定石を新たな参加者が採用しない場合、確かに始めは感覚のずれによって狼か人間かに関わらず吊られがちになるかもしれません。しかし、他プレイヤーの配慮があれば問題なく楽しめるはずです。
良いプレイヤーであるほど、初心者のために自分が純粋な心理戦を楽しみたい気持ちを少し自重して、運ゲー要素が高まる事は割り切って、感覚が違うことを前提に推理するスタンスで遊んでいるように思います。
まとめ
実力やプレイ経験・同村経験が違う人がいる時は、慣れた身内で遊ぶ時とは毛色が違う別のゲームだと割り切って、参加者皆で楽しむことを目標に遊びたいです(´∀`)
「人狼ゲーム面白そう」スタートからの、「人狼ゲーム恐い。もうしない」というバッドエンドは避けたいなぁと思ってます。
いずれも個人的な意見。
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