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死んだフリはできないけれど

『月が綺麗ですね』

『アイラブユー(愛しています)』を『月が綺麗ですね』と訳したという話がとても好きだ。夏目漱石の和訳は美しい。なんだか直球の言葉には、嘘が混じるという気がしてしかたない。愛してるの中には、好きだけじゃなくたくさんの気持ちが溢れているのに直球すぎてなんだか上手にその切ない気持ちとか苦しい気持ちとかが見えないなって思うのだ。

直球の言葉が求められ察すると言うことがわかりにくいなんて言われることの多い世の中だけれど私はいつも自分気持ちを言葉にする時どんなに言葉を重ねてもいや、重ねれば重ねるほど遠くなる様な足りない様な気がして口籠ってしまうことがある。

脱線したけれど『月が綺麗ですね』そう言われた時にどう返せばいいのだろうかという問いには二葉亭四迷の翻訳の言葉を借りるのがおすすめというのが定説となっている。その言葉は、『死んでもいいわ』。直訳で私はあなたのものよというのを和訳でそう訳したそうだ。でも私の中ではなんだかちょっと返として月が綺麗ですねとの温度差があるような気がしていた。なんだかしっくりこないのだ。

そんなことを思っていた事も忘れて過ごしていたのだけど先日ある無料配信アプリに<家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています>という映画があった。この言葉私は、Yahoo知恵袋で話題だった頃見ていたので映画になったのだとびっくりした。そしてこの話の中に『月が綺麗ですね』が出てくることにもびっくりした。そして久しぶりに『月が綺麗ですね』について考えることになった。

この映画は、バツイチの男性が再婚するときに3年経ったらこのまま続けるかどうか一度考えようというところからはじまる。もうすぐ3年目を迎える頃妻が家に帰ると死んだふりをしている。それに対して何を伝えたいのかわからず悩む旦那の話だ。死んだふりを続ける妻が分からなくて『言いたいことがあるなら言ってくれ』という夫に対して『今日は月が綺麗ですね』と妻が返す。そのときに視聴者はきっと『だから死んだふりだったんだ』と気づく。そして子供の頃に訪れた母との別れ、父の落胆、生きるということという妻の過去を知りその死んだふりという奇行が大きな意味を持つ。月が綺麗ですねの返しに対する温度差を妻の子供の頃の生きるということの深さを知ることで視聴者の私はとても近い温度差を感じた。そうかとその温度差は自分の察する力のなさだったのかと納得する。

なんでも真っ直ぐにはっきりということがわかりやすい。でも余韻を楽しみながら会話をすることができる人は、きっと傷つきやすく疑り深く優しい。しっかり目的を決めてその方向に向かって最短距離を歩むことは悪いことではない。でも寄り道をすることによって視野が広くなり生きることが苦しく故に楽しくなるかもしれない。

私に今『月が綺麗ですね』と言ってくれる人がいたらきっとその人が特別な人になるだろう。その人になんと答えを返そうか。死んでもいいわとは言えないけれどもう少し私の気持ちに沿った言葉はなんだろうと考える。言われる予定の人も近くを見渡していないのだけれど…(笑)綺麗ですね…。また一緒に見れるといいですね。太陽と地球と月の奇跡ですね。

いつ言われても良いように準備をしても実際そのように言われた時は全く別の言葉が出るかもしれない。というかそんな自分でありたいと思う。

#告白 #エッセイ #映画感想文

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