諦めるという意味が変わるための、受け入れるしかない無力感がやってきた。
『わかりません……わかりません……』
今日何度言っただろうか。わかりませんという言葉を何度も言う事は、こんなにも心が悲しくなるものだっただろうか…
私の今日の『わかりません』には、受け入れることしかない無力感が漂っていた。わからないをわかる努力をすることができない。前は、わかっていたのに、わからなくなってしまっていた事を認めながらそれをただ見ることしかできないやるせなさ。
もう40も過ぎわからないことに向かっていくことが無くなった。
わからないことは日常だった10代は、わからないということは誉められることだった。わからない事がわかって嬉しかった。
20代分かりませんということが、単純にわからないという意味だけじゃなく非常識という意味も加わっていった。わからなくてもいいことと、わからないことは恥ずかしいことが混在し始めて中には、わからないということができなくなった人も出てき始めた
30代わからないとは、言いづらくなりわからない人に教える立場になった。教える立場になり深く考えるようになった。
そして40代。もうわからないには、近寄らなくなっていた。そんな私は、わかりませんと言う言葉を発することは無くなっていた。わからないなら調べればいい。わからないなら聞けばいい。わからないなら感じて考えればいい。そうやって教えることをしてきた40代。わからない対処法がわかるからこそ、ただただわからない。というだけの答えは少なくなって来ていた
そんな私は、今日耳鼻咽喉科に行った。少し前から耳が聞こえにくく映画の言葉に聞き取れない場所があることに気づいて病院へ行った。調べた結果医大への紹介状を渡された。医大に通っても原因は、分からず結局何もできないでいる。原因がわからないので定期的に検査をし進行してないかを調べ気休め程度の薬を飲むことしかできず、解決方法がない。目が悪いことには、抵抗なく逆にメガネが掛けられると少し嬉しかったような気がする。でも補聴器の話をされた時私には、ワクワクとした気持ちが湧くことはなかった。補聴器少し考えてみます。そういって前回の診察を終えた際、次回は言葉の検査をしましょうと言われた。
言葉の検査とは、音が聞こえないのかそれとも言葉が聞き取れていないのかを調べる検査である。
そして私は今日その検査をした。そして冒頭のわかりませんをたくさんいうことになったのだ。言葉が聞き取れない。多分<あ>と<わ>の違いが分かりづらくなってきている。単語なら想像ができるけれど音に対して私の想像力は、なんの役にもたたtない
『わかりません…… わかりません……ワカリマセン……わか……』
そう言いながら無力感を感じ終わった後じわっと涙が溢れてしまった。
きっと看護師さんは、びっくりしただろうな。
<わかりません>というのが悔しいという涙ではない。抗うことなく受け入れることしかできないことへの無力感。そして改善されることがないのだと諦めることしかできないという事実。成長から老化へ向かっていくというのは、こういうことなのだ。
でもきっとそれは、悪いことばかりではない.
今まで許せなかったことが許せるようになる。きっと視野が広がり長い目で見ることができるようになる。人に期待するより見守ることができるようになる。人は、変わることができないと認めることができるようになる。
きっとこれからは、諦めるという言葉の意味が変わってくる。
諦めることは、悪いことじゃない。途中で投げ出すことでも、見極めることでも、断念することでもない。私の中で違う意味の諦めるが、今から始まるのだ。