《おかえりモネ》誰かの期待に応える事は罪なのか?
お箸は綺麗に持った方がいいし、勉強はちゃんとした方がいい。でもそれは、私の為なのか、誰かの為なのかの見境がつかない。『あなたの為よ』そう言われたから私の為なんだろう。上手に箸が持てなかったけれど怒られながら少しづつ少しづつ持てるようになる。怒られるのは、<私の為>にやってくれてる事なんだ。だから少しづつ色々言われても少しづつ自分の為に頑張るんだ。頑張ることは、嫌いじゃないし我慢することは、出来る様になる為には仕方ないことだ。
昔から<自分がやりたい事>と<誰かがやって欲しい事>を混同してしまいがちだ。
箸の持ち方から始まった仕方ないことは、そのうち仕方ないことが大きくなっていく。最近朝ドラの《おかえりモネ》でその事を考えることが多くなった。東日本大震災という大きな出来事がドラマ内には、出てくるんだけれど、この自分がやりたい事と誰かがやって欲しい事を混同してしまうという問題は、上京の問題だけでなく会社での出来事や仲間内での人間関係でもよくある話なのだ。
会社でよく働く人。頼れる人で困った時は、必然的にその人に視線が集まる。何か問題があれば、どこかでみんなその人がどうにかしてくれるだろうと無意識に思ってしまう。例えば、全体予算が後少し届かないとか、長電話のお客様から終業直前にかかってきたとか、クレーマーの人の対応とか、そういうことがあった時あなたにも無意識にその対応をしてくれる役職者ではない誰かの顔が頭に浮かぶのではないだろうか。役職者も一旦は、その人に対応をと思っている。
ただ責任感があるだけで、たぶん困ってる人を放って置けないだけな人なんだ。周りの人は、その人に甘えている自覚がないままその事は当たり前になっている。
例えばその人が突然困ったことに対応しないと言った事を想像したら自分が対応しようと思うだろうか?多分『え?あの人対応しないの』なんて思ってしまいそうならば、それは無意識にその役割を周りが押し付けているということになるのだ。役職があるわけじゃない時点で、将来役職がつきそうだろうがそうでなかろうがみんな平等なのだ。その人は、好きでやってるというのは、ちょっと虫が良すぎるのではないだろうか。誰の仕事と決まってない事が『あの人がやるだろう』と思ってしまうそれが《感謝を忘れてしまう事》であり当たり前になった瞬間なのだ。
『誰かの期待に応えるのは、最初は楽なんだ。だけどだんだん苦しくなる。』と言ったりょーちんの言葉が印象的だった。
地元に残ったみーちゃんとりょーちん。地元に残る事が偉いと考えるのは、おかしいと思うすーちゃん。地元に残らなくても好きなようにしていいのよと思っているみーちゃんの両親。自分が生きることで精一杯なりょーちんの父。震災を知らない事で心を閉し自分の好きな事に向かう主人公のモネ。
きっと地元に残ったみーちゃんやりょーちんに、『自分の好きな事をしたらいいんだよ』という言葉は、とても酷な話だ。それは、モネや菅波せ菅波先生にみーちゃんがした行動と同様なくらい酷な言葉だ。結局そうやって地元を守る事を決めた彼らがいるからそこを出て行った人達には、帰る場所があるのだから。ただのここると決めた人の中には、少なからず地元に対する責任感があるということは、確かなのだ。『そんなことお願いしてないし』という意見は、ごもっともだけれどそれに甘んじてる事実から目を背けてはないだろうか。彼らは、そんな中でもやりがいを見つけ生きていく。もちろん犠牲者だなんて思ってないけれど周りの大人も島を出て行った人たちもどこかでそれを当たり前だと思っていないだろうか。
世の中には、そうやって<誰かの期待に応える事>と<自分のやりたい事>を混同して足をバタバタさせながら過ごしている人がいる。そしてその役割を作る人がいる。その人が自分でそうなっただけじゃない。その役割を何となく決めてしまっていrう人が周りにいるのだ。
怖いのは、当たり前になって無自覚に責任を背負ってしまった人が何かを主張するとそれは『めんどくさい人』になるという事実だ。
そのめんどくさいの主語は何だろうか?
きっと薄々分かっているけれどその事を明確にされると色々困るのでそれを明確にされることが『めんどくさい』のだ。つまりそのめんどくさいの主語は、相手のように見せかけて実は、自分自身だったりするのだ。
それでもきっと彼らは思う。そうなるまで頑張ってしまった私が悪いんだと。この文章を読んで『そういうのってちょっと被害者意識が強いんじゃない?』と思う人もいるんだろう。そう思うと言うことは、つまりそう言う事なんだ。
#ドラマ感想文 #エッセイ