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日記:20241121「努力家とは禁欲主義者か、それとも快楽主義者か」
努力家とみなされているひとたちのなかには禁欲主義者というより快楽主義者に近いひとたちがかなりまぎれこんでいるようなきがする。
たとえば創作に没頭しているひとたちのなかには創作がきもちいいから創作しているひとがすくなくない。絵をかいたり文章をかいたりすることはそれそのもがきもちいいことなので、このきもちよさをいちど覚えてしまうとなかなかやめられなくなる。これは創作だけでなく運動でも学問でもそうだとおもう。もしかすると商売もそうかもしれない。
その道をきわめているひとは、はたからみると禁欲主義者にみえたとしても、実際には快楽主義者的なところがだいぶあるとおもう。要は、それがきもちよくてやめられなくて結果的にその道をきわめてしまうだけっていう。なにかをきわめたいのなら自分のきもちよくなれることをとことん追求すればいいのかもしれない。
昨日の日記にもかいたようにやはり《心の性感帯》を開発したほうがいい。ぼくはもともと自分なりの《快楽主義の哲学》があり、生きているかぎりはできるだけきもちよさを追求したほうがいいとおもってる(ちなみにぼくの《快楽主義の哲学》は次回の作品でもさまざまなかたちでかたられる)。うん。というかこれぜんぜん日記じゃないな。