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日記:20241222「『空は赤い』という文章は誤りといえるだろうか」

「空は赤い」という文章にたいして「空は赤くない、この文章は間違っている」と批判することはできるだろうか。たしかにそういう批判はできる。しかしその批判は有効だろうか。「空は赤い」という記述を誤りといいきれるだろうか。いいきれない。「空は赤い」という記述はありうるしそうした表現──記述とは表現である──を誤りとはいえない。また「空は青い」という表現が「空は赤い」という表現よりも正しいとはいえない。

 空を赤くえがいている絵を(またそうした視覚表現を)誤りとはいえないように「空は赤い」という言語表現が誤りともいえない。「空は緑色」も「空は桃色」も誤りとはいえない。「空は馬」とも「空は羊」ともいえるだろうし、すくなくとも自分はその表現を誤りとはおもわない。単にそういう表現をするひとがあまりいないというだけで。

 じゃぁピカソの絵にたいして「人間はこんな形をしていない、この絵は間違っている」と批判することはできるだろうか。できなくはない。しかしその批判が有効かといえばかなりあやしい。たとえばピカソの絵にたいして「現実に即していないという意味で間違っている」とはいえるかもしれない。ただしそうなると今度は「現実とはなにか」というなおさらややこしいはなしになる。

 ひとは対象をどのように表現することもできてしまうし、そうした表現の正誤を決めることはとてもむずかしい。もっというとこれは表現のはなしというだけでなく認識のはなしでもある。そしてこれらのはなしは哲学とも文学とも芸術とも関係している。

 最後に小話。

「空は青い」といいはるひとたちと「空は赤い」といいはるひとたちがいる。後者は前者の1/10にもみたない少数派だがそれでも「空は赤い」といいはる。彼等彼女等は最終的に殺しあいまではじめる。それでも空が青いのか赤いのかはわからない。そこに白い鳥があらわれてこういった。

「どうしてこうも人間はいいあらそうのだろう。あらそいあうのはほかの動物もおなじだけどね、いいあらそうのは人間だけだよ。君達の意見がどんなにわかれていたとしても空はこのとおりひとつなのに」

そこに黒い鳥があらわれてこういった。
「空はひとつではない。空はふたつだよ。君は間違っている」

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