国会議員の秘書15(地元から東京へ)
昭和62年の暮れには、大蔵原案内示の時に東京の議員会館に行って東京事務所を手伝いして原案内示の数字が固まると京都に戻って資料の発送をやり、昭和63年の新春を迎えた。正月の賀詞交換会が一通り済むと2月には、『自由新報』号外版を作成し後援会の名簿15万人に発送した。また、四つある政治団体の昭和62年度の収支報告書を今回は、無事失敗なく作成して京都府の選挙管理委員会に提出し終わり、3月末に再度、東京の議員会館に行き、建設省と農林省から各自治体の補助金の内示が出て箇所付の情報を後援会に知らせるための振り分ける作業を手伝いにいった。この作業では、私は、選挙区の地名などが、わかっているので東京事務所では重宝がられた。また、この頃、東京の公設第二秘書に対して野中先生の評価があることを理由に低下していた。もし、東京に欠員が出ると私が東京の秘書になる可能性が少し出てくる。人が去っていくことを喜んではいけないのではあるが、こと政治に関わる世界では欠員が出来たところでチャンスが巡ってくることは多々あり、私は、当時、秘書になったからには、東京で国会の動きを見てみたい。という思いがあったのと同時に、与野党含めそこには、秘書がトータルで数千人いるので、その中で揉まれながら自分はどこまでやれるか試してみたいという思いも強く持っていた。
5月のゴールデンウィークが明け、通常国会が終盤を迎える頃、東京にいる第二秘書が辞めるという話が決定的になってきた。野中先生は、秘書に対しても面倒見がいいのでなかなか私より上の秘書が入れ代わるということが先ずない。しかし、今回は間違いなく東京の事務所に、欠員が出来る。自分で手を挙げてでもいきたいという思いがあった。
また、この年の京都の状況は、参議院議員選挙を一年後に控えていた。前回の参議院議員選挙では、京都府知事から参議院議員に転出された林田悠紀夫先生が京都府選出で再度当選され、次は、参議院議員の京都府選挙区からは、植木光教先生が改選される予定であったのが自民党の京都府連では公認争いになり、最終的には、府議会議長をされていた西田吉宏先生が参議院の京都府選挙区の自民党公認候補になられた。この経緯の詳しい内容については、長くなるので、また別の機会に書こうかと思う。そして秋には京都国体があり、バブル期でもあったので全体的に京都では、公共事業も多くあり京都府全体に活気が満ちていた。
相変わらず野中先生は、東京、京都ともに、忙しく動きまわってられた。通常国会が6月中旬に終わり、私の記憶では、祇園祭りの山鉾が出来はじめた頃だったと思う。野中先生が会合に参加されるので、その会合の行く途中の車の中で随行している私に、突然、野中先生から「山田君、君独身で身軽だから東京で勤務するか?1人辞めるからどうだ?」と聞かれた。私は、願ってもないチャンスと思い、すかさずに「ありがとうございます。はい!ぜひ東京で勤務させていただきます。」と答えた。
後からわかったのだが、私が一番最後に打診されたようだ。野中先生は、先ずは、第一秘書に東京に行くか確認をされたみたいで、第一秘書は、「私は、京都で頑張ります」と答えられたようだった。それから何人かに確認されて、最終的に私に話がまわって来たようだった。私は、この頃、だいたいギリギリのところでチャンスを掴む運を持っていたのかもしれない。
この車の中の話で私の東京行きが決まった。今になって思うとこの頃は、「東京で秘書をするのは、自分のキャリアアップのためのワンステップ」などと考えていた。「いずれは、京都に戻って俺も!」などと大それたことを考えていた。
また、公設第二秘書が退職したことによって次に誰を第二秘書にするかということが出てきた。当時は、公設秘書の枠は、第一秘書と第二秘書の2つだけで公設秘書になるのはどの事務所も狭き門であり、野中事務所には、15人秘書がいる中で難しい判断だったと思う。野中先生は、年功序列という考えのところもあったが、この時は、秘書の中で1番年齢が上の秘書を二之湯智さんが京都市議会議員になったので空席になっていた後援会連合会事務局長の席へ着け、年齢は下であったが参議院の事務局の職員経験があった秘書に公設第二秘書のポストを与えた。
その公設第二秘書の発表があった時に、その人に対して拍手をして「おめでとうございます」と心から「羨ましい」と思って伝えたら事務所の何人かも喜んで拍手をしてお祝いを言っていた。
私は、「いずれ俺もあのように公設秘書になるぞ!」と思っていた。私の東京勤務は、9月1日からに決まり、その前の8月20日あたりから住むところを第一秘書と事前に東京に見に行った。
場所は、中目黒だったが、初めて行くところだったので議員会館からものすごく遠い感じがして内心永田町まで通えるか不安だった。希望と不安が入り混じるような感じだったが、やはり、希望のほうが大きく、「東京で自分は一花咲かすぞ」という気持ちと「いずれ故郷に錦を飾るんだ」という気持ちで意気揚々としていた。東京で秘書として勤務するまでの以上が経緯である。
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