国会議員の秘書28(平成3年前編・初の海外随行2)
(27に続いて)
平壌空港からホテルに到着して荷物を車から取り出すと案内してきた人が台車で荷物を運んでくれた。フロントロビーに入ると天井が楕円形の吹き抜けのようになっており、奥の方へ進むと野中先生と金丸信吾さんがフロント近くのソファに座っていた。向こうの通訳っぽい人が数人、そのまわりを囲んでいて野中先生たちと談笑していた。私は、頭を下げて挨拶をして野中先生に「お疲れ様です。荷物を部屋に運んでもらえるみたいですので預かってもらいました。」と伝えると「お疲れ様。まだチェックインを待っているから、君もこっちに、かけさせてもらえよ。」と言われたのでソファの端に座らせてもらった。ロビーには、まばらに人はいたが、みんなこちらの様子を遠目から伺っているように見えた。このホテルは、高麗ホテルという平壌では、外国人専用の高層ホテルであった。外の光が眩しかったからホテル内のロビーにいきなり入ったので目の錯覚で暗く感じるのかとなんとなく思っていたのだが、よく見ると電気がついていない電球がいくつもあり、ロビー自体が全体的に暗かった。
一緒にいた通訳っぽい人が「それでは、用意ができたみたいですから部屋に行かれますか?」と言われたので、野中先生が「ちょっと疲れたので部屋で少し休ませてもらうか。」と言って立ち上がられた。そうして、全員、同じエレベーターに乗り込むと野中先生が26階、金丸信吾さんと私は、23階の同じフロアの部屋だった。私は、野中先生の部屋のまで一緒に行って部屋の位置を確認してから、案内された人と一緒に自分の用意された部屋に行った。部屋には、自分の荷物が既に入れられていた。私は、案内された人に「ありがとうございます。」と言って「部屋のキーをもらえますか?」と尋ねると「部屋のキーは、こちらにはないです。」と言われた。私は、「えっ」とビックリして「それは困りますね。キーは、普通あるでしょう。もらえないですか?」というと。案内した人は、「安心してください。キーが無くても、我が国には、泥棒はいません。部屋を空けていても大丈夫です。」と言ってきた。正直、その時は、困ったが、仕方ないので「そうなんですね。わかりました。」と言うと。それでは、「30分程度休まれたら、呼びにきますので。」と言われたので「先生は、それを知ってますか?」と聞くと「野中先生にも同じことは、伝えてあります。」と言う回答だった。部屋を見渡すとテレビは、SONY製のテレビが設置されており、電源を入れても映らなかった。カーペットが床には、貼られているが、日本のように壁まで隙間なしにぴったりと貼られているようではなく、壁とカーペットには、少し隙間が空いていたりした。設置されている電話の受話器をあげても何も鳴らない。部屋の要所、要所の壁にははめ込みのような鏡が貼られており、部屋も少し不思議な形の作りになっていた。私は何もすることがないので、同じフロアの金丸信吾さんの部屋を訪ねて行こうとするとすぐに、向こうの人が私の部屋の前に現れた。そして「どこに行かれますか?」と聞かれると私は、「金丸信吾さんの部屋に」と伝えると「わかりました。」と言ってついてこられた。一緒に入ってくるのかと思うと確認してどこかに戻って行ったようだった。金丸信吾さんの部屋は、表のドアも開けっぱなしになっていたので、入口から私が覗くと部屋のソファに座りながらタバコを吸われていた。私は、「すみません。お邪魔していいですか?」というと「どうぞ、こちらに座れば」と言われてソファにかけさせてもらった。
先方がこれからの予定を知らせてくれないので、信吾さんに「これから私たちは、どうするんでしょうか?私は、初めてなので何もわからないです。」と言うと信吾さんは、「多分、万寿台記念碑のところか、主体思想塔あたりに連れて行かれるんじゃないかな。そこに行ってから、そのあと誰かと会うと思うよ。」と言われた。私は、「そうなんですか。勝手がわからないのでどうしていいのか。」と言うと信吾さんは、「まー、日本ではゆっくり出来ないから、こっちでゆっくりすればいいよ。なるようにしかならんから。」と笑いながら言われた。私は、「信吾さんと一緒にこられた人たちはどうされましたか?」と聞くと「彼らは観光してるんじゃないかな。こうなると別々の行動になるね。俺たちは労働党が全て手配するんじゃないかな。」と言われたので私は、「向こうに従うしかないのか。初めてなので観光してどんなところか見てみたいな。」と思ったが、「自分は、随行で来ているので仕方ない。はじめての海外でも、仕事に徹しないと。」と思うしかなかった。
また、信吾さんの様子を観察していると「仕草などがやっぱり金丸先生と似ているな。」と思った。そうこうしていると部屋の方に向こうの通訳の方がきた。
「そろそろホテルを出発します。用意をお願いします。」と言われて、私は、自分の部屋に戻り、手提げ鞄を持って出た。先生の部屋に行って支度をしてもらうと1階のロビーに降りた。
ロビーには、労働党の指導員(通訳も含め)数人がいた。車3台がホテルの車寄せにつけられて1台に野中先生と私が車の後ろ座席に乗り込み、運転手さんと助手席には、日本人と言ってもわからないぐらいの流暢な日本語を話す通訳の人が乗った。金丸信吾さんももう1台の車に乗り、そちらにも助手席に通訳のような人が乗り込んだ。さらにもう1台は、他の労働党のメンバーが乗ってホテルを出発した。
まず最初に行ったのは、万寿台記念碑だった。そちらで儀礼的なことをして、また、車に乗り込みその場所を離れた。日本の国道より幅の広い道路に車を走らせているが、私たち以外に乗用車は、あまり見ないというか、全く走ってないような感じだった。道路脇にトラックが故障しているのかわからないが、何カ所かでそのような光景が見られ、トラックのまわりに数人が集まって話をしているところを見た。また、道路沿いに、大きな看板のようなものに絵が描かれており、ハングル文字で何かが書かれていて、その絵は主に、軍人が子供や女性と同じ方向を見て指を差しているような絵が多かった。車の窓から外を見ていると道路の歩道のところどころに人が無表情な感じで歩いている。私は、それをぼーっと見ながら、作られている風景のような雰囲気がした。まるで映画のセットでエキストラが歩いているように感じた。平壌市内は、高層のマンションのような建物が多く整然と建っており、そのマンションには、日本のようにベランダに洗濯物も干していないので、私は、助手席に座っている通訳の方に「あの高いビルは、住宅ですか?」と聞くと「そうです。」と返事が返ってきた。あまり生活感が見受けられなかったのでさらに私は、質問した。「日本では、ベランダに洗濯物や布団を干してますが、そういうのは、こちらは、しないのですか?」と聞くと「朝鮮の人は、人にそういうのを見せるのは、恥ずかしいので外には見せないですね。」と笑って答えた。私は、行く先も告げられていなかったので「これから私たちは、どちらに行くのでしょうか?」と質問すると、「私たちの仕事場に行きます。」と笑いながら伝えられた。その間20分ぐらい車で走ったと記憶している。そうして頑丈そうな大理石の壁で出来ているような建物の車寄せに到着した。車から降りて建物の扉が開くとそちらには、身長が180cm以上はある大柄の男性と数人が横一列に並んで笑顔で立って迎えていた。
野中先生と金丸信吾さんは、面識があるようで笑顔で「あー、ご無沙汰です。」と言って握手をその大柄の男性と交わした。私も最後に握手をした。「そういえばこの人、2月に代表団で来日した時に団長をしていた人だ。この人が金容淳書記か。」と私は思った。通訳を交えて金容淳書記が「先生方よく我が国にお越しいただきました。さあ、こちらへ、どうぞ。」と言って広間のホールのようなところに案内された。その広間には、壁際に椅子が並べられており、その椅子に座るように促された。正面には、大きな絵がかかっていた。玄関の入口のところもそうだったが、このホールのところにも壁一面に大きな金日成主席であろう人物が景色のいいところに立っているような絵が額に入って飾られていた。テーブルにお茶が置かれいてその椅子に座り5分ぐらいだったと思うがその場所にとどまった。こちらの建物も見渡すとやはり、電気が所々消されていて暗く感じた。すると私と空港で一緒に荷物が出てくるのを待ってくれていた人が現れて、金容淳書記たちが立ち上がり、「それでは、こちらへ」と案内されて3メートルぐらいあるんじゃないかというような扉が開いた。部屋を見るとマイクスタンドがそれぞれの席に設置されている長い会議テーブルがあった。そのテーブルを挟んで向かいあって座った。左の列のテーブルの席の真ん中に野中先生、その隣の奥の席に金丸信吾さん、部屋に入って1番手前の方に私が座った。先方は、野中先生の正面に、金容淳書記、その奥に、初めて見る少し年齢の高めの男性、私の迎えに通訳(後に党の指導員になる黄哲)、その隣には、今でもよく名前を聞く宋日昊指導員が並んで座った。
金容淳書記が歓迎の挨拶をひと通りされると野中先生が、金丸信先生から預かってきた手紙と今回訪朝した経緯を伝えられた。平壌に到着して、これがはじめての会談になった。終始なごやかな雰囲気でお互いの近況の話をして1回目の会談を終えた。
私は、この会談をしている間、メモを取るだけなので先方の表情や仕草などの様子を見ていたが、多分、ここに出てきているメンバーは、こちの発言と同時に頷くところや顔の表情を見ていると反応することがあるので全員、日本語がわかるのかもしれないと感じた。
また、会談は、通訳を挟むので30分の話が倍の1時間になる。「もし、こちらも通訳を連れてきて正式な外交交渉をすることになるともっと時間がかかるんだな。」と私は、はじめてこの会談でわかった。これが野中先生と一緒に、他の国との会談に立ち会うはじめての経験となった。(〜続く)