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あのね聞いて・キャラ文、生き直し

一人の夜が必要になる時、お前は独りじゃないと思い出すべきだ

一人の夜、僕はなるべくベランダに出るようにしてる。ベランダならタバコ吸ってもバレないし、空が見える。もしかしたら同じ空を同じ気持ちで眺めてる人がいるかもしれないじゃないか。
難点なのは、飛び降りて自分を痛めつけたくなるくらい。

「あのね聞いて!」って小さい子供に言われた。知り合いのお子さんで、僕は子守り(と言っても小学一年生くらい)をしていた。
「今日ね、〇〇ちゃんがね」
と嬉々として僕に話しかける。僕はうんうんと聞く。そっかそっかと相槌を打つ。もう、高校の時から面倒はたまに見ていたから、こんなに大きくなるのかと月日の流れる早さ、残酷さ、焦燥を実感せざるを得ない。
ふと、この子にはなんでも出来る未来があるのだと思うと羨望してしまった。少しばかり嫉妬もしていたかもしれない。僕の惨めな学校生活とは真反対の、青春の二文字が快晴を背景にしたタイトル画面のようなストーリーがあるのだ。
なんともまぁ、可能性を秘めている存在なわけだ。
僕もこの子くらいの日々に戻りたかった。戻ったら上手くいくなんて確証がないのは百も承知だ。だけど、低い可能性であったとしても絶望の今よりはマシなのだ。死なずとも転生できる日がやがてくるかもしれない、生き直し、みたいな。

文章って雑文であればあるほど、ハードルが下がるわけだけど、noteで書く雑文ほどノータイムで投稿できるものってそう無い(もちろんnoteで投稿している小説は違うけど)。こんな僕でも気軽に投稿できるし。そういうプラットフォームって大切な気がする。けど、その分、文章を乱雑に扱っている自分に悲しくなる。文とは、もっと尊くて貴くて、清いものだと思っていたはずだから。今となっては自分をアピールするための媒体にしかならず、売れない芸人がなんとかキャラ作るのと同じように文を投げ打っているから。
しかしまぁ文で売れたい。売れたい売れたい。どうにかして売れたい。手段は問わない(自分ができる範囲内で)。パチンコに精を出してる暇なんて無いはずなのだ。料理なんて作ってる暇なんてないはずなのだ。一日のうち、一分一秒を無駄にせず机に向かってパソコンカタカタ、スマホをシュッシュしてないければならない。のに、弱い自分。
またいつもと似たような雰囲気になるしやめよう。
一番noteを書く時間として多いのが寝る前だけど、寝る前って本当にテンションが壊れてしまっていて、ハイとかローのレベルではないので、情緒がバグを起こしてしまっている文章になってしまう。
寝る前、世界が変わってますようにと本気で願う日もあれば、明日がこのまま来ないで夜よ明けるなと思う日もある。酒飲み過ぎて泥酔してる日もあるし。
いずれにせよ、僕がどうであれ時間は刻々と経っているという事実。自分が物語の主人公であるという固定観念から抜けられず消費していく日々。ヒーローもののように相手から何か事がやって来るのを待つ日々。このまま日本経済のような低迷している20代を送ればいいの? 僕はそれで三十路になって報われるの? 人生のバブル期がやってくるの?
誰も答えてくれはしない。先生も、上司も、病院の先生も、先生になりたい頭の良いアイツも。
このグレーでマーブルになっている心象を晴らせる、海外の映画のような展開は見込めるのでしょうか。
何も言えないこの得体の知れない不安、檸檬を棚に置くだけで本当に晴れるのでしょうか。Twitterに特定の悪口や、穿った見解を書くだけで満足出来ているのでしょうか。


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