ワシントン広場
<古い記憶より> こんな事ありました
本物のワシントン広場はニューヨークのマンハッタンにあります。私は行った事はありません。
私が知っているワシントン広場は、もうどこにもありません。
現在の北九州市の小さな田舎町にそれはありました。ありましたというのも、実は本当では無いのです。
近所の子ども達が、勝手に命名した小さな広場なのですから。
元々そこは田んぼで、ある時田んぼの一画が埋め立てられ、資材置き場になりました。有刺鉄線に囲われたその場所は、子ども達の関心を引く事はありませんでした。
が、一年が過ぎた頃、そこにあった資材は運び出され有刺鉄線は取り除かれました。
でも、元の田んぼに戻される事は私が知ってる限りはありませんでした。地主さんには感謝しかありません。
その場所は、学校の教室のニつ分よりは狭かったような気がします。
そして子ども達が、とても喜んだ置き土産がポツンと横たわっていました。
ドラえもん、あのアニメのままの大きなドカンがあったのです。
このドカンをどんな遊具よりも子ども達は好きでした。
皆んなの共通の隠れ家であり、ゴッコ遊びの重要な小道具(大道具?)となりました。
ある時は難破船にある時は宇宙船に、お城、お店、タイムトンネル、戦車、家…なんにでも見えた不思議。
このドカンで遊んだのは、主に女の子でした。男の子が野球をするには狭かったし、ボール遊びは地主さんに止められていましたから。
周りは田んぼですからね。
でも男の子がドカンの中やドカンの上で漫画本を読んでいたり、一人黄昏ているのは、時々目撃しました。
この広場をワシントン広場と誰が名付けたのかわかりませんが、当たり前のようにそう呼んでいました。
その頃ラジオやテレビで、『ワシントン広場の夜はふけて』という曲が流れていた時期と重なります。(ヴィレッジ・ストンパーズというアメリカのジャスバンドのヒット曲 1963年)
今聴いても昭和生まれの私にはカッコいい。多分、名付けた子もそう思っていたのかもしれないです。
このワシントン広場で、私達は年齢を超えて遊びました。幼稚園を卒園したばかりの一年生から、3月になると卒業していく六年生まで。同じメンバーで顔を合わせていたわけでは無く、その日によって集まる顔ぶれは違っていました。
大抵は行きがかり上、一番高学年の子がリーダーとなり皆んなをまとめ、指示をしながら遊びます。
こういう時はわらべ歌を歌いながら遊ぶ、かごめかごめ等や、ゴッコ遊びになります。皆んなで参加できますから。
たまには歌謡ショーをする事がありました。
6年生の中に、歌が好きな子がいたからです。
一人づつか、数人でドカンのステージで歌うのです。当時流行っていた歌や、わらべ歌、唱歌、なんでもありでした。歌に合わせて踊る子もいました。最後は全員で小学校の校歌を歌って締めました。(みんなが絶対歌えますから)
小さい子らの中には、思うようにならないと泣き出したり、グズグズ言ったり、座りこんだり、他の子に手を出したりする子がいましたが、年長のお姉ちゃん達は見事に対処していました。
叱ったり、すかしたり、諭したりと、上手に対応する術は、代々の上級生から受け継がれてきたのでしょう。
そうこうしているうちに、手のかかった子も変わっていきました。
まさに、人との関わり方、社会勉強のレッスン.ワンだったのだと思います。
ワシントン広場は、私達の人生最初の小さなステージでした。
残念ながら、私はここでリーダーになる事はありませんでした。6年生になる頃引っ越しをしたからです。
記憶も遠くなりすぎると、かなり美化してしまうのかもしれません。けれど、楽しく幸せな記憶として寄り添ってくれるワシントン広場にお礼を言いたいと思っています。
そろそろ夜もふけてまいりました。
あの頃のワシントン広場、おやすみなさい。
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日本語の歌詞も好きです。