記号消費社会。
ボードリヤール・・・。
『悪の華』のボードレールって思ったけれど別人なんだね。
前に書いた『会社におけるニヒリズム』は、記号消費社会という事らしい。
生産時代から消費社会への変化。
消費社会における経済を回すために、既存の製品に新たな付加価値等、また謳い文句など、それは既に記号に過ぎないと。
限定○○個、今売れています、今日だけ○○%OFF、とか。
ゲーム機のハード戦争においても同じ事が言えそう。
古くは任天堂とセガ、途中からはソニー、などなど。
8ビットのファミコンから16ビットのスーファミ、そのまんまの名前だった64まで。ハードの性能を上げてくる。
そういえば今のハードってその単位で言うとどれくらいなのだろう?
聞かなくなって久しいけれど・・・。
調べてみたら、あれ? 64? 変わってないん? ちょっと意外。
それでもグラフィック機能とか上がっているんだよね。
PS3とPS4でも若干は違うっていうか。
巷ではPS5も発表されているけれど、もう充分じゃない? 駄目?
今のハードで充分面白いゲーム作れるんじゃないかなって。
ファミコンとかスーファミくらいのクオリティでも全然遊べる。
スイッチのオクトパストラベラーとか、凄く良かった。
と、個人的な趣味の例えはさておき。
そういう風に新製品を作って経済を回していかないと、ゲーム業界に限らずどんな業界においても破綻すると・・・右肩上がりの時代は続かないって既に証明されている。それでも破綻させないために、モノを売るために、アノ手コノ手で(最新機種、ブランド力、あの人も使っています、など=記号)購買意欲を煽っていくというのが今の世の中か。
それ自体が記号であって、新しい記号さえ作って経済を回していけば破綻する事はない。記号消費社会というボードリヤールの主張を解釈。
じゃあ、記号に騙されずブランド品は買いません!!
世の中の宣伝文句に踊らされずに生きていきますって個人的に言ったところで、世代も変わるし、社会の枠組みの中で生きる以外に術はないから・・・『それは記号消費社会ですよ』と、言われてしまえばそれまで。
何をしても逃れることが出来ないことから『哲学は死んだ』。
画期的な新しい○○主義、○○社会は現れないだろうという現代哲学。
いや、まて。
まさに今、時代の変革期を迎えているのではないか? コロ助禍。
先行きが不安の中、経済的な記号消費は通用しなくなりつつはないか?
誰かが意図的に変化を加えている。
それに記号消費って経済論であって哲学とは論点がズレている気がする。
真理を考え、追い求めるのが哲学なら、哲学は死なない。
画期的でなくても、真理は導けなくても、考える人がいる限り。
死ぬとしたら考える人がいなくなった時。
つづく。