弁論に関する一考察(弁論の意義)
先日、2019年に中の人が新入生に発表したパワポを投稿しました。
大学弁論をする意義とは何か?
弁論訓練説だとか弁論本質説などという言説があるが、OBがカッコつけて呼んでいるだけで言葉自身に意味はないと中の人は考えている。
漠然と始めた弁論に梯子を掛けようとする言説は方便であり無意味である。
なぜ、弁論を始めたか?
中の人は、「真面目に活動を行っていて、代表になれる程度の組織で実績を積む」為に弁論部に入部した。(ガクチカ作りの為です)
当初は、活動内容が弁論であっただけで書道部であれば書道をしていたと思う。
新入生が入部する動機なぞ、下らない物で、大した大志は存在しないので暑苦しく指導をするのは薄ら寒いだけである。
弁論をする意義
結論から言えば、弁論は聴衆を説得するものであり意義である。
では、説得とは何か?
中の人が思う説得とは「Aのプランを唱えた際に、聴衆が速やかにAを行うように促す事」であると考えている。
人が行動を行うには「論理的理解」と「精神的理解」の双方が必要であると後輩に指導を行なってきた。
例えば、メンヘラ女がヒステリーを起こしているのを論理的に説き伏せても「どうして、そんなこと言うの?」と訳のわからない直情的な反論を喰らうことになる。
ここで、弁士に求められるのは聴衆であるメンヘラ女の心に寄り添い話を聞くように仕向けることである。
逆に、論理的に話をする人間に感情で物を話しても相手にされない
この場合、弁士に求められるのは聴衆を納得させられるだけの論理武装である。
当たり前ではあるが、世の中には様々に人間がいる
弁論を行う以上は、全ての人間を説得できるように弁論を行うことが弁士の礼儀であると中の人は考えているので、聴衆が馬鹿だろうが、礼儀知らずだろうが説得を心がける必要がある(日常では、話は別)
故に、感情と論理が合わさらなければ弁論ではないと中の人は考えている。
なぜ、弁論を行うのか?何が得られるのか?
始めた動機は人それぞれだが、何かを得る為に弁論を行なっている事は変わらないだろう。
弁論は字の如く、弁(わきま)えて、論ずる事である。
(大学)弁論で得られるものは、この辺りにあると中の人は考える。
ロゴス、パトス、エートス弁論を行う上で重要とされる3要素
ロゴスとパトスは先ほど述べたので、エートスについて論じてみる。
演壇で弁論を行う際、演練で指導を受ける際、弁士は自分のテーマを鏡に自分を見つめる機会が多い。日々の身の振り方や話し方、思考を文章に書き起こす事により自分を表現する。大会で勝利する事は、説得の優劣であるとすれば他者に自分がどのように写るかを考える過程で自分自身を弁える事が弁論で得られるものである。
この点を、考えずに勉強会や弁論のみを行うアカデミックサークル化させると中小弁論部は差別化ができずに近いうちに消滅すると中の人は考えている。
多数部員を抱える弁論部だけが残ったとしても、大会開催などの面で魅力や質が低下し大学弁論は途絶えるだろう
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