生まれ代わり

「子どもが欲しい」とは、どういう気持ちなのだろうか。

わたしは、多嚢胞性卵巣症候群で、不妊治療をしている。

しかし、「子どもが欲しい」という感覚がイマイチよくわからない。


具体的に言うと、将来の夢とか、将来の計画として、「子どもが欲しい」というのがよくわからない。

将来子ども欲しいな〜とか、子どもが欲しいから結婚する、みたいな、その感覚。


わたしは、「子どもが欲しい」じゃなくて、「旦那の子どもを産みたい」という感覚で、不妊治療をしている。


旦那と付き合うまで、将来、子どもなんていらないとずっと思っていた。

子どもが好きではないし、大変そうだし。


しかし、旦那と付き合ってから、旦那と結婚してから、こんな素敵な人と自分のミックスなんてさぞ可愛くて貴いだろうな、見てみたい、育てたい、愛したいと思うようになった。


「子ども」がほしいわけではない。

子どもはいらない。

「旦那の子ども」がほしい。


そんな一方でわたしは、旦那と2人の時間が一生続けばいいと思っている。

続いてほしいと思っている。

毎日幸せで仕方ない。

ずっとこの時を過ごしていたいと思っている。


なのに私は、子どもを産むことを望んでいる。

何故なのか。

子どもを産むということは、旦那との2人の時間を消す(もしくは減らす)ということだ。

子どもが産まれて3人の生活になったら。

それは今の2人の生活より幸せなものなのか?

今のままでじゅうぶん幸せなのに、それ以上の幸せがあるというのか?

そんなの確実じゃない。


何故みんな、子どもを産むのだろう。

夫婦2人だけの時間に飽きたから?

もっと大きな幸せを追求するため?

私は2人だけの時間に飽きがくるなんて思えない。


でも大抵は、みんな結婚して1.2年で子どもを産んでいる。

夫婦2人の時間が1.2年で足りるのだろうか。それで満足できるのだろうか。

私はできない。一生かけてもできない。来世でもその次も、その次も、ずっと、永遠に旦那と一緒でも、それでも、永遠に満足することなんてきっとない。

これは私たちがラブラブすぎるということなのだろうか。

ということは、子どもを産む夫婦はラブラブじゃないということなのだろうか。

2人の時間だけじゃ埋まらない、欠けている幸せのピースを、子どもという存在で埋めようとしているのか。

そんな自分勝手な理由で、世間は、子どもを産むと言っているのか。


でも私は違う。私たちは違う。

私たちは愛し合っていて、幸せで仕方がない。

その愛する存在と、自分の掛け合わせを愛したくて、子どもを産む。

私たちは、「本当に生まれることを望まれて産まれた子」を、育てる。


不妊治療クリニックで、旦那の精液検査をしてもらった。

ぴょこぴょこ動いて、一生懸命前に進もうとしている精子たちを映像で見た。

初めて、愛おしいという感情がうまれた。

旦那の中でこの子たちが生きていて、わたしの卵子と出会いたがっていて。

絶対にこの子を生まなきゃ、と思った。



わたしは、子どもを産むことはわたしの人生の主役を譲ることだと思っている。


誰がなんと言おうと、わたしの人生の主役はわたしだ。

でも、子どもを産んでしまったら、わたしはわたしの愛すべてを子どもに注ぐと思う。

わたし自身への愛すらも。

つまり、主役を降りるということになる。

主役を、子どもに譲るということに、なる。


わたしはもう、わたしの人生を、誰かに託したいのかもしれない。

もう全うした、あとは好きなようにやってくれ、と。

わたしはもう、死にたいのかもしれない。


子どもを自殺の道具に使うなと言われるかもしれないが、子どもを自分たちでは埋められない幸せのピースとして使うよりかは、何億倍もマシだと思う。



でも、まだ子どもでいたい気持ちもある。

時折感じる。

辛いとき。寂しいとき。

わたしはまだ愛する番じゃない、愛される番だ。

わたしにはまだ「愛される」が満たされていない。

足りてはいる。けど、満たされないのだ。

「無条件に愛されること」が。


わたしはきっと、わたしの子どもをわたしだと思ってしまうだろう。

子どもを「一人の人間」だと思えない。

子どもに自分を重ねて、共感してしまう。

子どもが泣いている時、一緒に泣いてしまうかもしれない。

子どもが苦しい時、一緒に苦しんでしまうかもしれない。


私はそう育てられた。


わたしが泣くと、母はその何倍も泣いた。

わたしが苦しむと、母はその何十倍も苦しんだ。

わたしはその度、辛くなった。

母を落ち着かせようと、必死に自分の感情を殺した。


寄りかかりたかった。

大丈夫だ、と、抱きしめて欲しかった。


いつだって、母を興奮させないように、わたしはわたしの気持ちを外に出さずにいた。

いつからか、自分の気持ちを外に出すのは恥ずかしいことだ、と思うようになった。


わたしは、一人の人間として、ではなく、母の機嫌をとる者、として育ったのだ。


わたしに母と同じ血が流れていると思うと、心底死にたくなる時がある。


わたしの感情だった、母。

わたしのすべてだった、母。


支配されている、そんな感覚に、ふと襲われる。



わたしも、子どもが、わたしの全てになる。

子どものすべてが、きっと、わたしになる。


殺してくれ。


殺してくれ、そんなわたし。



わたしが生きるために、わたしは、わたしという子どもを今、必要としている。


早く、子どもを抱きしめたい。

今も私の中で泣いている、幼いわたしを抱きしめたい。


わたしはわたしに愛のすべてをあげたい

わたしはわたしの愛をすべて子どもにあげたい

それがわたしの欲しいものだから


今すぐにわたしを抱きしめたい

今すぐに子どもを抱きしめたい


わたしはいつかうまれる子ども





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