言の葉 否、言の刃
人は無意識に色んな情報を知らず知らずのうちに発している生き物だ。
苛立ち、嫌悪、幸福、憂鬱など挙げればキリが無い。
一番、人間が発して何か大きな影響を与えてしまうものが言葉のような気がしてならない。
言葉は自らの意思でコントロールする事ができるものだと思う。
まず、自らの意思で発する言葉をその言葉の意味も理解した上で決定する。そして、その言葉を発生するために声帯を使って音にする。それが口を媒介して音として放たれる。
このように、何段階かの自らの選択の意思決定の連続の末に初めて辿り着く。
これは今、私がここに記している様に文字にするというプロセスも同様だと思う。
そして、時折言葉とは正の面でも負の面でも大きな影響力をもたらしてしまう。
もちろん、この二つの面は表裏一体である。
だからと言って、ポジティブな言葉ばかりを並べろという説教の様な事を言いたいのではない。
耳障りの良い事しか受け付けないというのはとても独りよがりだ。
批評や批判があってこそ、さらに良いものが出来上がったり色んな事への気づきがあると思う。
しかし、この大前提として面と向かって発する側も受ける側もお互いの一定の信頼関係があってこそ初めて成立するものだと思う。
未知で不明な所からの言葉は恐怖でしかないと思える。
それが例え、励ましの言葉であっても、誹謗中傷であってもどちらだとしても匿名で顔の見えない相手からのメッセージというのは、、、
ポジティブな物だから良いとかネガティブな物だからダメなのではない。
そもそも、自らの意思で発して相手に届けてしまった瞬間からそれはもうすでにその相手に対して矢を放ってしまっているのと同じなのだ。
その結果、大小に関わらず少なくとも何かが起こってしまうというリスクがあるという事を理解していない人が多すぎる気がする。
そして、その何かが起こってからしかそういったリスクの存在に気付けないというのは一人間として、あまりに悲しい。
僕も含め、人間というのは時に、人を鼓舞したり、時には人を痛めつけてしまう。
とてつもなく矛盾した側面を持った「言葉」という武器が標準装備されてしまっている。
だが、人間を造った神が存在するとすれば、その神はとても大切な機能を付けてくれたなと思う。
それは冒頭でも言ったが「言葉」は自らの意思でコントロールできる物であるという事である。
「言葉」は拳銃の様に構造上、引き金が付いていて自らの意思でその引き金を引かない限り弾丸が発射される事はない。
このように言葉にも安全装置が付いていると僕は思う。
仕組みだけを言えばこのような形であるはずなのにこの安全装置が壊れたのか、壊したのかは分からないが、たがが外れている人が多すぎる気がする。
自分が発したり、送った言葉によって相手が追い詰められこの世を去る選択肢を選ばしてしまったとするなら、それはもう立派な殺人者なのだと。
僕たちが使う「言葉」とは言の葉と書くのではなく言の刃と書き「言刃」と表記し改めるべきなのかもしれない。