(3)空間性の病

病む。闇に侵されている。「病み」と「闇」が同じ読みなのは日本語の偶然なのだろうか。病魔が人を蝕むイメージは闇が光を飲み込むイメージとリンクする。何も見えなくなる。僕は今何に苦しめられているのか。
心の状態を把握する能力は健全な精神のみが持ちうるのかもしれない。

久々に会う友人は僕に必ず「元気?」と尋ねてくれる。僕は「わからない」と答える。身体的にはすこぶる元気だ。しかし、己の精神が健全かどうかがわからない。精神が健康な人は自分が健康だとわかるだろうから、自分は不健康だと推測することはできる。ただ、わからないのだ。自分の精神状態を裏付ける根拠がない。客観的に把握できない。これは主観的視点から客観的になろうとしているから、どだい無理な話なのかもしれない。何か理由があって辛い、苦しい。そういった具体性があるわけではない。形のない苦悩が僕に付きまとう。まるで己の存在そのものが魔の温床であるような不埒な予感。人はこれを「存在論的鬱」と呼ぶらしい。

一日は足早に過ぎていく。一週間も一月も足早に過ぎていく。ただ、かのXデーは、モラトリアムの終焉は、いつまで経っても訪れない。遠い遠い未来に聳え立つ果てしなく大きな砦として臨まれる。明日は4月1日である。

毎年、4月1日は自身のうだつの上がらない状況を打破しようと己を鼓舞する日になりつつある。その行事は毎年繰り返されているが、果たしてこれまでの試みで私は再起しただろうか、開花しただろうか。年を重ねるたびに、4月1日は変わらない己の現状への嘆きと諦観を意味もなく積もらせる記念日へと姿を変えようとしていた。

世の中には鬱というものを経験したことない人がいる。そんな彼らはその人間がどのような状態に置かれるかを想像することはできない。想像はできても知ることはできないと表現するのが正しいだろう。人間は共感や同情といった感情の機構を持つが、それを実体験の代替とすることはできない。あくまで、共感や同情はそういった他者の体験の模倣であり、受け手の主観に基づく再現である。共感する側のこれまでの人生で形成してきた価値観や世界観に大きく影響を受けるホログラムでしかない。

人は他人の痛みを理解できない。他人の荷物の重さがわからない。人は他者の感覚を知覚できない。

他人がそれを体験できない以上、僕の感覚を文章に起こすことは無駄にも思える。これは執筆の意義を揺るがしかねない命題である。だがここであえて僕の鬱を説明するとするならば、鬱とは側面、場、広がりをもった空間的な何かといえる。

「状態」というと一過性のものが想起される。病気やけがなど人間が本質とは異なる状態に遷移すること、鬱が状態やデバフととらえるとそうイメージできるだろう。確かに鬱とはどこまで行っても人間の性質に過ぎない。状態とは一過的な性質であるから、それもほぼ間違いはないといえる。しかし、私があえて「空間的な何か」と鬱を表現したいのは鬱と主人格の二重性とその半永久的な残存にある。おそらく鬱というのは人間の側面であり、時にその宿主をも飲み込み内包する曲面であるのだ。

鬱は治らない。症状が改善したあとも暗い影となった心に暗がりを与える。ふとした時にそれは表層を侵し、人格の主導権を取り戻す。鬱が再発する。
鬱とは、人間に新たに生まれる人格の「場」であり、人間の第二の本質が育つ場である。

鬱になるとよく別人のようになると表現されるが、それは的を射た意見である。当然あなたが見ている彼は別人なのだ。勿論鬱と原初の人格の境界が不鮮明に不可分であるだろうから、混じりけのない純粋な人格というものは存在しないだろう。ただ、そういった混合物は観測者の誤差範囲に収まる程度であり、その色眼鏡を通して捨象されているだろう。鬱の人格は旧来の彼とは別人といって差し支えない。

僕の中で鬱の人格は大きく育ちすぎた。彼は決して若くなかった。去年の上半期、僕は現実への抵抗と激情の渦にのまれた。抗いたかった。一秒でも長く休みたかった。僕の鬱は僕をすべて包み込み僕を操っていた。休学してから、僕を苦しめる枷は消えた。それと同時に僕の鬱はすっかり老いてしまったようだ。全盛期の鬱に食い荒らされた僕の主人格だけが伽藍洞のように残され、焦りだけがむなしく響く空間となった。

心とは本来空間であるのだ。しかし、健常な人間の心には思念や感情が絶えず生成されては消え、空間を占有し、言葉が格納されてるがゆえに、僕らは心を何か物体のようなものと錯覚しているのではないだろうか。今の僕にはわかる。心には本来何もないのだ。ゆえにわからないのだ。人は心の中身を失って初めて心が空間であったことに気づく。中身を失っても心そのものは消えてなくなるわけではない。電子雲のような確率性の不確かな輪郭だけが残存し、場としてのみ感知できる。そこには茫漠たる無が広がっているのだ。

僕は最初にわからないと言った。当然何もない、「無」を知覚することはできないから、自身の心の有様を表現できないのだ。人は「無」に「無」以外の名前を与えることはできない。老いてやせ細った鬱の場から、かろうじて滲み出す焦燥感だけが、僕が今、「無」であることを気づかせてくれる。

言葉の泉の涸れ果てた荒涼たる砂漠の最中にいる気分だ。砂、砂、砂、見渡す限り何もない。ただ受け皿のない鋭利な感性だけが宙を仰いでいる。

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