自己啓発本読まず嫌い 〜HowじゃなくてWhat、Whyを〜
私は自己啓発本というものが嫌いで、読んだ覚えもない。まあ読んでから評価しろとのご批判は真っ当かもしれないが、まあ読まないであろう。それぐらい嫌いだ。でも読まずしてここまでハッキリと嫌いと言えるのか自分でも気になったので、その理由を読まず嫌いなりに考えて書き下ろしてみようと思う。構成的にはまず自己啓発本とは何かから始めて、それに対する批判と私が嫌悪する理由を続けてまとめていく。
①自己啓発本とは何か
私の自己啓発本に対するイメージとしては「ハウツー本」である。何に対するハウツーかといえば仕事や金、人間関係に対してのことであり、それらを上手くやるため、成功するためというお題目をメインに販売されている本のジャンルだと思っている。そしてその内容とは作者・著者が一方通行的に方法論をレクチャーするもので、事実の裏付けに疑問符もつきかねないものだと認識している。ここまでは私個人の認識なので、大正義Wikipedia様からの引用するが、
自己啓発書(じこけいはつしょ)とは、人間の能力向上や成功のための手段を説く、自己啓発を目的とした書籍。自己啓発本、セルフヘルプ本、自助本とも。主に人生について取り扱う分野であるため人生書の一種とも考えられ、人生指南書などの表現も存在する。ハウツー本(ノウハウ本)、実用書、ビジネス書なども関連ジャンルであるが、スピリチュアル的な要素や非科学的な内容の場合が多いため、心理学書などの学術書とは峻別される。
と書かれており、私の認識と相違はほぼないと言えるだろう。付け加えれば、宗教の経典とも似ており、違いは宗教が主により良い死後のためのハウツーであるのに対し、自己啓発本は現世でのハウツーという点だろう。
②何が嫌いなのか:3つの点
そのような自己啓発本を私が嫌う理由として3つの点を順に挙げていく。まず(1)自己啓発本の購買力の源泉が作られた「不安」とそれを煽るある点である。上記で述べたように自己啓発本は「成功のため」、「スキル向上のため」の本である。これらの目的は社会的な欲求であり、もし満たされているのであれば購入する必要のない。つまり、現在の社会的な欲求が満たされていない状態を認識し、そこにある不安や不満を煽られることによって自己啓発本を購入してしまうのである。そしてそれを読んで「不安」を解消しようと思うのであろう。反対に、例えば学術書やアカデミックな文体の本は物事を知的欲求を満たすものであるといえよう。専門家でもない限り、それらを読んだところで知識が蓄積するだけで、お金は生み出せないし、むしろ知識を得たことによって知識の深い海へ放り込まれ「不安」は増大するかもしれない。自己啓発本読者からすれば無駄なことだと思うだろうし、よくこれらの本を読む私自身も特に金にもならないし、一見無益であることに異論はない。しかし、その購買の源泉は私個人の知的好奇心であり、社会的な欲求ではなく自己の知的欲求を満たすために購入している。「不安」は解消しきれないものであるのに、あたかもそれを解消できると謳って買わせてくる。そのやり方が嫌いだ。
次に(2)その形式である。①で述べたようにハウツー本であることに批判を加えたい。一言でいえば自己啓発本はハウツー本である限り、”浅い”のである。社会の中でどのように成功するか、どうお金を稼ぐか、どのように良い人間関係を作るのかというHow to を唱え続けるのが自己啓発本の形式である。しかし、そこで提示される、社会、お金、人間がそもそもどのようなものであるか問うことはないし(What)、なぜ社会で成功する必要があるのかという前提が自体にも問いは投げかけられない(Why)。ひたすら暗黙の前提を疑うこともなく表面上のHow toを追いかけるだけである。また綴られている言葉の意味や使い方、その前提が存在する社会の構造などに目は向けられない。つまり、自己啓発本とは盲目的に表面上の方法論(How)だけを追求するものであり、根源的なものへの問いや疑い、批判によって得られるその広さや深さ、奥行き(What、Why)を遮断してしまうものであるという点で”浅い”のである。
そして(2)を強調する形で(3)哲学的思考が全く生まれない点である。哲学が追求してきた対象とは現象や人間や存在、認識の仕方や社会構造などである。そしてその出発地点は「問い」でありそれらを発展させてきたのは「批判」である。つまりそこには常にWhatやWhyが存在する。これを繰り返すことにより、深層的な部分まで思考が及ぶだけでなくその思考過程で表層面の広がりを得ることもでき得る。しかし「問い」も発生させない、「批判」を受け付けない一方通行的である自己啓発本はある表層面だけのある枠を区切り出し、深く立ち入りさせず、その作者が設定し、読者も強制的に同意させた枠を広げることを許さないだろう。繰り返しになるがそれでは自己啓発本が提示するHowだけを盲目的に舐めるだけなのである。そこからは人生とは何だろう?社会とは何だろう?などの哲学的思考が出発すらしない。
③社会に根付いているHow優先思考
ここまで自己啓発本について批判を重ねてきたが、最後に自己啓発社会について批判したい。ここで言う自己啓発社会とはどうやって生きるか?どうやって稼ぐか?どうやってモテるか?などの方法論、そしてその具体性ばかりを要求してくることを指す。極端に抽象性が嫌われていると感じる。確かに目先の問題に対して行動するに際して求められるのは方法やその具体性かもしれない。しかし、その行動の前に何が問題かを見ることができなければ、その方法や具体性も意味をなさない。そして「何が問題か」を見極めるには広く深く思考し認識する哲学的な考え方や抽象性が必要なのではないか。真っ先に方法論や具体的な施策を得ても、小手先で誤魔化したものでしかなく、その場限りしか使えないだろう。抽象的なものは確かにわかりづらく小難しいかもしれないが、そこに向き合わなければ全体の設計ができないし、その有用な小手先の方法も無駄になってしまう。肌感覚に過ぎないが、現在の社会は抽象性や問うこと(What)を過小評価し、方法や具体(How)を過大評価していると考える。
④まとめ
このように私が自己啓発本を嫌う理由やそのようなマインドセットが根付いている社会について述べてきた。不安を煽って買わせる自己啓発本の売り方も嫌いだが、何よりもそのHowの提示によって読者を思考停止にさせてしまう内容が嫌いだ。おそらく③で述べたように読者自身にもHowを求めるマインドセットが根底にあることもあるだろう。しかし、自己啓発本を読んだとしても「木を見て森を見ず」状態なのである、それどころかその一本の「木」を「森」だと勘違いさせるのだろう。それこそ本当の無駄なのではないだろうか。WhatやWhyを十分に重ねること、抽象性を恐れないことがより良いHowを見つける出発点であり、前提条件である。以上、自己啓発本を読んだことのない私から自己啓発本への批判でした。
参考文献
自己啓発書、Wikipedia、(2021年9月17日閲覧). https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%95%93%E7%99%BA%E6%9B%B8
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