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スポーツの日に思い出したこと

 今日はスポーツの日で三連休最終日。

 スポーツの日と言えば昔は体育の日として10月10日と決まっていた。

 秋の晴れの特異日であるこの日は本当に天気がいい日が多い気がする。

 実際今年も10日は晴天だった。

 子どもの頃私はスポーツ少年団でソフトボールをやっていた。

 私は球技が大の苦手だったのでやる気はまるでなかったのだが野球狂の父の強引な命令で有無を言わされず入団させられた。

 早い子は小学三年生から始めるのだが、私は五年生から始めた。

 最初の内はキャッチボールもろくに出来ず下級生にバカにされる始末だった。

 練習は月曜日と木曜日の週二回だったが、前日になるとゆううつで気分が沈んだものである。

 それでも半年くらいコツコツ練習をしていると取れなかったノックもどうにか形になるようになってきた。

 それよりも問題は打撃の方でトスバッティングですら満足にこなせなかった。

 普通に飛んでくるボールに関してはまるでかすりもしない体たらく。

 そんな一向に上達しない私を見かねて父がソフトボール特訓を私に課した。

 素振りを毎日百回。

 それから新聞紙を丸めてガムテープでぐるぐる巻きにしたボール代わりの球を打つ練習を五十球やらされた。

 練習に熱が入ってくると父は段々熱くなってきて何で当たらないんだ、スイングが下がっている、ボールを良く見ろと打撃練習の回数は際限なく増えていった。

 普段の父も厳格であまり得意ではなかったがソフトボールの特訓をしている時はまるでにわか星一徹でとても怖かった。

 私は日々の父との練習が嫌で嫌でたまらなかったが逆らう事も出来ず特訓を積んでいた。

 しかし球技センスのない私はなかなか上達せずに父をやきもきさせた。

 それでも六年生になる頃にはカメの歩みのごとき速度でちょっとだけ上手くなっていった。

 チームも新体制になり団員の数もかなり減ったので私はファーストのレギュラーに任命された。

 守備は日ごろの練習でどうにかおぼつくようになり、エラーもたまにしたがまあ最低限の働きは出来たと思う。

 課題はやはり打撃でこれがちっとも打てない。

 小学生とはいえ強豪チームのピッチャーの投げるウインドミルは私からしたら目にもとまらぬ速球であった。

 やはりトスバッティングと飛んでくる生きた球を打つのは根本的に違うなぁと思いながら三振の山を築いていた。

 打順は九番だったがたまにフォアボールで出塁するとチームメイトが盛りりあがったものである。

 私のチームは地区でも最弱クラスで大会に出ても一回戦負けばかりだった。

 たまに同じくらいのレベルのチームと運よく対戦すると二回戦に進むことができるというレベル。

 そういう試合の時はごくまれに私もヒットを打つことあった。

 それでもどうにもソフトボールの面白さが分からずに義務感でやっているようなものだった。

 そんな気乗りしないスポーツ少年団だったが、年に一度チーム対保護者という対決が行われた。

 だいたい体育の日であった。

 その保護者チームの中に父もいた。

 試合は日ごろから練習をしている小学生側が有利な展開になる事が多かった。

 それでも保護者のおじさんの中にはバッティングの得意な人もいて特大の豪快なホームランを打たれたりして試合は白熱した。

 私はいつも通り三振か凡打でなかなか塁に出る事が出来なかった。

 攻守が交代して保護者側の攻撃の時に父の打順が巡ってきた。

 日ごろから熱決指導を受けていた私は父の活躍に期待したが、バットにかすりもせずに三球三振に仕留められた。

 あれ?と小さな疑問が浮かんだが次の回の小学生の攻撃の時に私の打順が回ってきた。

 父の守備のポジションは三塁だった。

 ある程度加減してボールを投げてくれる保護者の一球を思い切り振りぬいた。

 ボールはまあまあの鋭さで三塁を強襲したが真正面だった。

 ああ、しまったと思って全力で一塁に走ろうとすると、そのゴロを父が見事にトンネルした。

 誰が見てもド素人の守備で一塁ベースに到達した私は塁に出られたことは嬉しかったが豪快なエラーをした父の事がショックだった。

 あれだけ毎日熱血ソフトボール特訓を私に課していた父が球技がてんで苦手だという事がありありとわかって何とも言えない気持ちになった。

 その試合はどちらが勝ったのかよく覚えていないが、グラウンドからの帰り道に父が非常にバツが悪そうだったのははっきり記憶している。

 小学生の頃は親というのは万能の存在だと思いがちだが、案外そうでもないんだなと気が付かされた体育の日の一日だった。

 その日以来あれだけ眉毛を釣り上げて星一徹だった父がやる気を失って特訓はやらないようになった。

 私はチョッピリ父が気の毒になったが日々の特訓から解放されたという方が嬉しかった。

 結局ソフトボールは二年ほどプレイしたが通算打率は二割にも届かなかった。

 当時は苦痛でしかなかったが父があれだけ熱くなって指導してくれたことはありがたいし愛情も感じる。

 この時期になるとこのエピソードを思い出して、ふふっとほろ苦くちょっとやーいやーいとはやし立てたくなる気持ちになる。

 いや、今では父の事は大尊敬しているし大好きですよ。

 この話を酒の肴に一杯やりたいものである。

 父ちゃん覚えてっかな~。

 

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