他人のnoteはなぜつまらないのか?

他人の文章、特に他人のnoteはつまらない。それはなぜなのだろうか。このことについて考えてみたい。

まず思うのはnoteの何らかの要素が影響してそもそも文章を楽しく読む態勢が作れていないのではないかということである。携帯で文章を読むのが苦手なのかもしれないし、(大抵は)アマチュアが書いていると思っているからなのかもしれない。もう少し踏み込んで言うと、私は文章を読みながらメモしたりコメントしたりするのが文章を読むことの楽しさの一つだと思うが、それがしにくいからなのかもしれない。とにかくこのなかのどれか、もしくはここには挙げられなかった何か、noteの文章を読むということにおける何かが影響して文章を楽しく読む態勢が作れていないのかもしれない。

このように思うのは、私は文章を楽しく読むこと自体には自信があるからである。いや、待てよ、その前提が間違っているのかもしれない。私が自信を持っているのはその時々の自分の気分に合わせた本を選び取ることなのかもしれない。本が20冊あるとしたら、その時々の気分で楽しむことができそうな1冊を選び取ることに私は自信があるのかもしれない。そう考えると、私が他人のnoteの文章を楽しめないのは20個記事があってそこから1個、その時々の気分にある自分が楽しめそうな記事を選ぶことができないからだということになる。なんというか、私はこの筋に可能性を感じる。ので、この筋で考えてみたい。

noteの文章を読むとき、私は書き手よりもむしろタイトルで記事を選んでいる。その理由は簡単で単純に書き手にまで興味が向くことがほとんどないからである。思えば、その極めて数少ない興味が向いた書き手のものは大抵楽しく読んでいる。例えば、労働者E(哲学)さんのものは大抵楽しく読んでいる。他にも数人楽しく読む人がいるが、彼ら彼女ら以外は大抵つまらない。そう考えると、私は作者で面白いとつまらないを、いや、楽しいとつまらないを区別していることになる。ただ、考えたいことが二つある。一つは上で私は「その時々の気分にある自分が楽しめそうな記事を選ぶ」ことができないことを理由にしていて、その筋に可能性を感じていたのにもかかわらず作者によって「選ぶ」ことができるならばその理由は使えないということである。もう一つはなぜ(noteではなく)本を読むときには作者によって「選ぶ」ことは楽しく読むことの第一の方法にはなっていないのかということである。

後者のほうが簡単なので後者から答えよう。端的に言えば、noteは作者レベルでしか認識できていないのに対して本は作者レベルだけでなくそれぞれの本レベルでも認識できているからである。noteと本では認識できている範囲はもちろん深さも違うのである。だからよりオーダーメイドで文章を選ぶことができる。私が楽しみやすい文章を選ぶことができるのである。

前者については後者の答えから推測できるところがある。つまり「選ぶ」ということの次元が違うのである。すると当然「選べない」も次元が違う。ただ、これは「理由になってないじゃないか」という反問に答えたことにはなっても「筋に可能性を感じた」ことの理由にならないと言うこともできる。もちろん、そこでの「可能性」を「選ぶ」の次元の違いの話のことだとするならば、それでこの文章は終わりだが、もう少し踏み込みたいのでそうではないことにしよう。すると考えなくてはならないのは「なぜわざわざnoteの文章を読むのか?」ということである。もう少し流れを汲んで問いを仕立てるとすれば、「なぜわざわざ粗い『選ぶ』から始まる読書をするのか?」というふうになる。このことについて考えてみよう。

私の答えは端的に言えば、「文章を楽しく読む態勢を作る」こと自体を楽しもうとしているから、というものである。「選ぶ」の次元が細かければ細かいほど、もうすでに「文章を楽しく読む態勢を作る」ことは完了している。と言ってもいいほど態勢は作られている。「選ぶ」によって。しかし、「選ぶ」の次元が粗くなればなるほど、私は「文章を楽しく読む態勢を作る」ことをしなくてはならない。それを楽しむために私は「わざわざ粗い『選ぶ』から始まる読書をする」のである。その次元を開くために「私は「わざわざ粗い『選ぶ』から始まる読書をする」のである。

こう考えると、他人のnoteの文章がつまらないのは私が「文章を楽しく読む態勢を作る」ことができていないからであるということになる。もちろん、「文章を楽しく読むこと自体には自信がある」と言ってもつまらない文章がないわけではない。言い換えれば、私次第ですべての文章が面白くなるわけではない。しかし、ある程度は面白くなると私は思っている。だからわざわざ荒い海を泳いで行こうとしているのである。ただ、「他人のnoteを読む」もある程度どういうものか把握されてはいるので完全に野生の読書ができているわけではない。しかし、私は別にそういう読書がしたいわけではない。私は適度に野生みのある、そして適度に洗練された、そんな文章を楽しく読みたいのである。

ただ、私は「粗く/細かく」というグラデーションを保持することで「文章を楽しく読む態勢を作る」こと自体をバランスよく鍛えたいとも思っている。これもまた自然に育つわけではなく、私がある程度は舵を取って育てていかなくてはならないのである。私はどちらが理想的な読書であるかなんてことは言っていない。バランスが大事だと言っているのである。「バランスが大事」なんてことはいくらでも言われてきただろう。しかし、私は新しい「バランス」を提示したのである。この文章の意義はおそらくそこにあるだろう。これはみなさんに、そして私に「文章を楽しく読む態勢を作る」ことをしてもらうための補助、ここまでの比喩、海や船の比喩の流れを汲めば、羅針盤である。

ここまでかなり綺麗に丁寧に整理してきたが、正直noteに特有のつまらなさはあると思う。それについてはまた機が熟したら書こうと思う。これは(noteに限らず)他人の文章はなぜつまらないのかということにも過剰にオーダーメイドであることの陥穽にも関わる論点である。それだけ示唆しておこう。未来の私に。では。

いいなと思ったら応援しよう!