普遍性を持ち得るものー論理ゲームのバグー

普遍性というのは、人種や民族、習俗を超えたものである場合と、ある社会集団でのものである場合がある。
そのどちらにおいても、普遍性は成り立つとされている。それがそもそも間違いであるという人もいるだろうが、その普遍性という概念そのものが虚なものであってもそこに至ろうとする努力、方法論はなにも間違いがない。

過程も結果も間違いであることはない。

そのどちらも間違いであると断定できるのは原初状態という仮想を描いているものだけである。
間違いであることはない、という言葉に対する批判は、それは間違いであるという意味のないものと、じゃあその根源はどうなんだ、というまた別の意味で意味のないものである。
人は人それぞれ個人の可能性の最大の発揮が認められている。それは他人の可能性を批判する可能性ではないはずだ。
そもそも、批判というのは自らの実感を通り越してしまえば虚構のものとなるのだ。

批判は普遍性を持ち得る。その構造において。

構造主義がもたらした考えは、確固たる何かを見るのではなく、そのそれぞれの関係のところに現れる関係性こそに目を向けるべきであり、その関係性を構成している何かが確固たるものとなるのはその関係性に依存しているからである。
というものである(そもそも、この考えが確固たる何かを生み出しているという異論はあるだろうが)。

そして、普遍性というのは、このような不可視的なイデア的なものと、それに対をなし、それぞれがカオス的な関わりをする可視的な現象というものを発見した途端、生まれる。

発見するまで普遍性というのは、発見されていない。

これは当たり前のことである。けれど、誰もこれを正しく認識し得ない。認識した時点でそれは認識されたものとして認識される。ということは、発見というのは認識の発見にほかならない。だから、発見されていないという状態を正しく認識することはできない。予期的な頭脳がそれを許さない。
例え、記憶を失い、同じ発見をしたとしてもそれは二度目の発見とはならない。そこでもし記憶を取り戻したとしても、そこに生まれるのは新しい認識である。
認識していないという認識は蜃気楼のように遠くに存在するものではない、自らの目を鏡なしでは見ることのできないもののようなものである。

普遍性を持ち得るものというのは、普遍性が発見されたものである。という、何の進展もないような事実が現れてしまう。
けれども、そのような普遍性を持ち得るものとして普遍性が発見されたもの同士の関係性のうちに普遍性に不変な構造を見出すことができればこの問いは一つ進んだものとなるであろう。
けれども、普遍性というのは、どう考えても普遍性という名前がついている別物のようなものである。それが、何かと何かの足し算なのか、何かから何かを引いたものなのか、それとも掛け合わせたもの、割ったもの、何かわからない。
これは普遍性という言葉にだけ付き纏う問題ではなく、〜性という言葉、いや、言葉そのものの問題である。
それを乗り越えた途端に、普遍性を持つ普遍性という言葉、でも、それを乗り越えてしまえば、それは普遍性ではない。人間には見えなくなってしまう。
この問題は無限のハマれば抜けない論理ゲームである。
けれど、一応同語反復を逃れるために言うとすれば、

普遍性を持ち得るものというのは普遍性を持ち得るものとして認識されたものであり、その認識の過程でどこにも普遍性という性質を用いなかったもの。

となる。
だが、これは不可能なことである。
無限の白が白として認識されないのと同じで、それぞれの言葉の中にはそれぞれの言葉の可能性の全てが含まれている。そしてその可能性の中に一番深く根差しているのは含んでいるとされる言葉の可能性である。

普遍性について考えていたつもりが言語の拡大性と自己矛盾性に話がいってしまった。
けれども、この問題は特に解決すべきだと思われない。
論理ゲームのバグのようなもので、それを受け入れてゲームするしかないのだ。
そして、この性質において、言葉の発展はなされる。
それだけは普遍性を持ち得るのではないか。
ともすれば、普遍性を持ち得るものとは解決すべきではないバグのこと。
となるのかもしれない。
諦めの細波が僕の頭のリズムを狂わしたのかもしれないが。

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