思考の基礎

久しぶりにお風呂に入った。

このところの私は高熱が続いておりお風呂に入れていなかったのだ。そして今日、まだまだ治ったとは言えないが、比較的熱も落ち着いたのでこのように文章を書き始めている次第である。

ここで書きたいのは、「思考の基礎」について、である。私はお風呂でこのテーマを思いついた。私は次のような文章を思い浮かべていた。

十月十二日──到着して一週間は、周りの刺激に対して一生懸命に解釈をかけていたが、物事を過剰におもしろがろうとするテンションはそれから下がってきた。異国にいても日本にいるように暮らす、という解離的、現実否認的な段階に入っている。アメリカにいるようで、いない。それが適応なのだろうか。
変な言い方だが、僕はずっと日本にいるのに、周りの環境すべて、人も物もすべてが国際シンポジウムのためにまるごと来日しているみたいな感じがする。
それでもまだ、本格的に仕事を始められる心境ではなかった。心境、いや「知覚境」というか。環境のストレスによっていったんバラバラになってしまった知覚の修復に時間がかかっていた。それはある程度はできてきたと思うが、まだ十分論理的な思考を立ち上げる段階にはなっていない。

『アメリカ紀行』39-40頁

これは千葉雅也という哲学者(普段こんな紹介はしていない、ぶっきらぼうに「千葉雅也」としか書かないのになぜ今回はしたのだろうか。)がサバティカル(学外研究)に行ったときに書いたものである。

仮に「思考の基礎」が何層もあるとすれば、「知覚境」の下には「集約境」があり、「知覚境」は「集約境」に支えられているのではないだろうか。(これは別にどちらがより重要とかの話ではない。それが「下」と「支えられている」という表現の共存に託されている。)熱が少し下がり、多少ではあるが考え事ができるようになったいま、私はそう思う。

「集約境」というのは簡単に言えば「まとめて一つにする」こと、いや、精確に言えば私たちが勝手にしている「まとめて一つにする」ことである。別の角度から言えば、私たちが勝手にしている「あるものをあるものから区別する」ことである。

そして、このような「集約境」が「知覚境」を下から支えているというのは「十分論理的な思考を立ち上げる段階」にはなかったとしても「環境のストレスによっていったんバラバラになってしまった知覚の修復」と言えるためには「バラバラ」であることがそれとしてわからなくてはならないということを意味している。言い換えれば、「あるものをあるものから区別する」ことなしに私たちは何かと何かが「バラバラ」であると思うことはできないということを意味している。高熱の際にはそれができなくなるのである。すべてが溶け合っていて、いや、溶け合ってすらおらず(なぜなら溶け合うというのはAとBが溶け合うのであり、それはAとBが区別されているからこそ可能だからである。)、何を手がかりにすることもできず、考え始めることそのものができなくなるのである。高熱の際は。

「知覚境」ともう一つ上の「境」(「心境」だろうか。)のあいだに「論理的な思考を立ち上げる」ことができるか否かが挟まっているのだとしたら「集約境」と「知覚境」のあいだには「思考を立ち上げる」ことができるか否かが挟まっているのだろう。

少し抽象的になってしまったが、今回はこれくらいで許していただこう。ちなみに私は次の箇所が好きだった。

風がある。遠くにカモメのような声も聞こえる。ここは海から遠くない。
ゴー、ゴー、ゴーというこの音。ゴースト。喉が風洞となるこの音。抜けていく。通り抜けていくもの。通り抜けていくということ。アメリカのゴーストとは何か。それは何かに「宿る」霊ではない。巨大なプロセスなのだろうか。タバコを消して部屋に戻ると、部屋の空調もゴー、ゴーと鳴っている。

『アメリカ紀行』57頁

ここにはデリダやレヴィナスなどが集まってくる。集められる。この、人間性、行為性。「行為性」には『行為の哲学入門』が、「人間性」には丸山圭三郎が集まってくる。集められる。「集まってくる」と「集められる」のあいだ。

「思考を立ち上げる」と「論理的な思考を立ち上げる」のあいだ。「思考を立ち上げる」と「思考が立ち上がらない」のあいだ。前者の「あいだ」には「立ち上げる」のメタファー性が、後者の「あいだ」には「思考を立ち上げたい」という欲望性が見えてくる。今回はこれくらいにしよう。眠たくなってきたので。しっかりバファリンを飲んでユンケルを飲んで寝よう。明日には治っているといいな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?