自己分析という大喜利について
私は「自己分析」とやらを馬鹿にしていた。というよりも、なんというか、センスがない、と思っていた。いや、なんというか、「自己」の措定がそもそも「分析」なのであるからよくわかっていなかった。そして「自己分析」を「自己」の「強み」やら「弱み」やらを「析出」することであると思っていたから「分析」をつまらなくしているように思えて、少し嫌だった。
別にこの見立て、「自己分析」を結局は「析出」であると見る仕方はほとんど変わっていない。し、この見立てが正しいのなら「自己分析」はつまらないと思っている。しかし、私は「自己分析」の「自己」を「私の癖」であると考え、「分析」をそういった意味での「自己」を「話の筋」にすることであると考え始めてからそれが楽しいかもしれないと思うようになった。
そして、おそらく過去の私の「自己分析」への「いやあねえ、」みたいな態度を氷解させたのは「自己」を「話の筋」にするときの「話」を「演技」であると考えること、そしてその「演技」の指示を「自己分析」を求める何かに仮託することであったように思われる。いまでもつまらないとは思っているが。
ある意味で大喜利に似ているかもしれない。なんというか、「笑い」に向けられた大喜利ではなく「響き」に向けられた大喜利。観衆に響くことに向けられた大喜利。「笑い」と違うのは共通のコードの扱いであろう。(もちろん、「笑い」は「共通のコード」の取り出しに多くを依拠するとも言えるが、ここではその取り出しを字面上はお題を出す人がしている。このことが明示的であるか否かで「笑い」と「響き」を区別することができるかもしれない。)
「笑い」において「共通のコード」はいじられる。そのいじられが機能するのはその「笑い」に際して「共通のコード」が既に指さされているからである。しかし、「響き」において「共通のコード」はいじられない。というか、それをいじらないということが主要なコードである。だから、いじるというよりも脱臼させる方に方向づけられる。脱臼させすぎるのもよくないからそのバランスを保ちつつ脱臼させる方向に向けられる。「自己分析」は。
私は「バランスを保つ」のが苦手である。どうしても「脱臼させる」ことに向かってしまう。そして途中からは一人語りである。ただそれは別に「自分語り」ではない。なんというか、様々な断片を、経験をつぎはぎして、そのつぎはぎに取り込まれ、蠱惑する、そういうこととしての表現、それをするのである。そして私はその最中、「私の癖」を見つけるのである。またそれを見つけるのである。一つの「実践」。それは一つの「実践」である。
しかし、それは一つの幸運である。大抵はどこかでつまらなくなってしまう。飽きてしまう。これは「私の癖」である。これは別に良いようにも悪いようにも言える。し、どちらとも言いたい。私は「悪いことを良いことに言い換える」ということの「言い換える」が成り立つ理由が気になってしまう。それを「分析」にかけようとしてしまう。そんなことをする場ではなくても。これは仕方のないことである。
「これは仕方のないことである」を見つけることが「自己分析」である。わけではない。
こんがらがってしまった。一人で考えるとやはり、こんがらがる。だから私は即興で話す。ほとんど何も決めずにそうする。それは仕方のないことなのだ。準備は気乗りしない。面倒くさいというよりも気乗りしない。楽しくない。こういう形になっていない、ぼんやりとしたものを私は「話」をすることで、そしてそこで「筋」を見つけることで、そしてその「筋」の発見の「癖」を見つけることで、その「癖」の発言の「癖」を見つけることで、たまにまとめ、また私は「実践」していくのである。
私は倒錯しているかもしれないが、「語る」ことを「筋の発見」に向けた一つの資料であるとしか思っていないところがある。ここで「語る」ことも「筋の発見」に向けたことである。この「筋」というのは「癖」とか、他には「偏り」とか、「形式」とか、「構造」とか、そういうふうに「析出」される。「分析」は何かに向けてなされるものであるが「析出」はそうではない。だから上で「分析」を「私の癖」を「話の筋」にすることであると言っているのは端的に「自己分析」を「自己析出」に変えてみようとしているのである。そう変えないとあまりのつまらなさに吐き気がするから。やる気が起きないだけでなく気乗りしない。乗る気が起きない。波が立っているようにも見えないし、乗る気も起きない。それが私が「強み」とか「弱み」とか、そういうことを「自己」としてまとめること、「自己分析」にやる気が起きない理由である。そしてそれを「自己析出」として考えること、それができるようになって私は少しだけやる気が出た。
まあ、これも仕方なくしていることであって、楽しいところはあるものの、大抵はつまらない。
何を書くでもなく書いてきた。し、別に特に目新しいことはない。ただ、「分析/析出」という対比や「私の倒錯」をそれとして見つけるという課題設定を垣間見たのでそれでよしとしよう。とりあえず。