「代弁」しないという倫理
私は何らかの規範によって自らを苦しめている。のかもしれない。この二つの文章は連続して書かれたわけではないがその規範を捉えようとしたものであるという意味で連続していると考えられる。ここではその規範について考えてみたい。
まず、上の文章からいこう。私は他人に自分の気持ちを代弁されるのが嫌いである。別に理由があってそうであるわけではなくてただ単に嫌いなのである。もちろん、この「ただ単に嫌い」に理由をつけることはできる。例えば、勝手に原因を決定されるのが嫌だ、とか、勝手に理由を決定されるのが嫌だ、とか、そういう理由をつけることはできる。もう少し踏み込んで言えば、一貫性はあるか否か、という問題圏に引きずり込まれるのが嫌だ、とか、その問題圏に引きずり込むくせにみんなはその問題がどのような問題であるかを捉えようとしないから嫌だ、とか、そういう理由をつけることもできる。しかし、ここにあるのは端的な嫌さ、いや、この「嫌さ」は繰り返される拒否反応をひとまとめにするためのフィクションである。あるのは拒否反応だけであり、その拒否反応をひとまとめにするとおおよそ上の文章で書かれたことになるだろう。そういうことがここでは言われている。これをもう少し細かく言ったのが二つの文章のうちの二つ目の文章である。
ここ(=二つ目の文章)では問題をわかりやすくするためか、はたまたそもそもの問題はここにあって他人から代弁されるという問題はその派出系であるのか、それはまだ判明ではないし、どちらとも言えると思うが、強調された問題が提示されている。それは仮に自分が自分のことについて言うとしてもそれは「代弁」であることを免れないという問題である。さらに、この問題は「救い」とか「苦しみ」とか、そういう人間的な機序にも関わっていて、そこにおいてこの問題が「私の最奥の倫理」(ここでは「私の内なる最奥の倫理」と「私の最奥の倫理」という二つの言い方がなされている。このことを重く取るなら、「内なる」という表現は人間的な機序に関わるところにおいては「倫理」として議論することが可能で、その奥にあるところについてはそれが不可能だと示唆しているとも取れよう。)を表現していると言われている。そこで表現されているのは言うなれば「関係性が存在することを感じつつそれを存在させない。」ということであり、それが「私の最奥の倫理」であると言われているのである。
さて、一つ目の文章に戻ってみよう。私はここでの考察さえ拒否している。この過剰さがおそらく私を苦しめている。もう一度読んでみよう。
ここでの考察は言うなれば「嫌で嫌で仕方ないという気持ちを代弁」することである。「それで自分は喜ぶんですかね。」私はそう言っている。こたえてみよう。「わからない。」これが正直なところである。私は「沈黙する」のではないか。それか、真剣に「語る」ことはやめるのではないか。私はそのように思う。私が語りたいらしいことは「語る」と途端に「騙る」になる。絶対的にそうなる。もちろん、「語る」と「騙る」は曖昧な基準によって支えられている、などと言って誤魔化してもいいだろう。もちろんそうだ。まったくそれで構わない。しかし、私の真剣さというのはそれを誤魔化しと呼ぶ。これで私が苦しもうと、私は真剣なのである。
私の強すぎるリフレクションの精神は私を苦しめる。私は哲学するために生まれてきたのではない。私は何かをするために生まれてきたのではない。しかし、私はおそらく哲学をする。それは仕方のないことであり、それからいくら離れようとも私は哲学のもとにある。だったら私はそれをみんなに伝えておきたいと思う。
本当か?
沈黙してみて、やっぱり話したくなったら話し出せばいい。私はこれまでたくさん話してきたのだから。
とは言っても、どうせまた話し始めるだろう。素敵に話せたらいいね。
「代弁」させてあげる。君はだから、だから君はうまく「代弁」しなね。
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