オノ・ヨーコ的快楽の模倣
オノ・ヨーコ的快楽の模倣。オノ・ヨーコ自身が享楽しているかはよくわからないが、彼女の振る舞いは快楽的なのでそれを模倣する。
私が模倣するのは『今を生きる』(集英社インターナショナル、2014年。)におけるオノ・ヨーコの振る舞いである。この本はTwitterに寄せられた質問にオノ・ヨーコが答えたものをまとめたものであり、私はその答え方を模倣したいのである。
私がこのような取り組みをするきっかけになったのは横道誠が『創作者の体感世界』(光文社、2024年。)のなかで『今を生きる』を「一種のミニマル・アート」であり、「読者から寄せられた複雑な悩みを、ミニマリズムの流儀であざやかな回答で消滅させてしまう芸当」であると称していたからである(『創作者の体感世界』178-183頁)。そして、『今を生きる』を実際に読んでみて大して知らない「ミニマル・アート」を理解した感じがしたからである。
以下、いくつかの回答を読んでみることで助走としてみよう。
この回答を横道は「人間はみな楽器で、人生の営みは演奏だから、それに打ちこめば良いということだろう。この単純なモデル化にヨーコのミニマリズムは極まっている。」(『創作者の体感世界』181頁)と評している。しかし、別の見方をすれば、この回答は的外れである。なぜなら、質問は「どの楽器が好きですか?」というものであり、楽器の名前を答えるのが普通だからである。しかし、その普通をオノ・ヨーコの普通に変えることで質問と回答は互いに響き合っているのである。オノ・ヨーコの普通というのはどのようなものだろうか。他の回答を見てみよう。
この回答を横道は「人それぞれみんな違うのだから、じぶんの感じ方をたいせつにして、じぶんの道を進めば良いという見解なわけだ。」(『創作者の体感世界』182頁)とまとめている。私もこのようなまとめをすると思われる。しかし、この見解が「一種のミニマル・アート」になるためには「楽器」や「色」などが関わってくる必要があるだろう。つまり、ただ単に「人それぞれみんな違うのだから、じぶんの感じ方をたいせつにして、じぶんの道を進めば良い」と言うのではなく、それを表現できるテーマ、ここまでで言えば「楽器」や「色」を掴むことが「一種のミニマル・アート」を生んでいるのである。
さて、分析してしまったせいでわかりにくくなってしまったと思うのだが、私がしたいのは別の「一種のミニマル・アート」を生むことである。横道の言い方で言えば、「自閉的」もしくは「自己満足的」なQ&Aを作ってみたいのである(『創作者の体感世界』171-174頁)。
しかし、困ったことに私にはQがありません。どうしましょう。『今を生きる』から借りましょう。適当に開いたページの質問に答えることにしましょう。オノ・ヨーコ個人に向けられた質問はなんとか読み換えましょう。(以下の数字は『今を生きる』の頁数です。)
ここでの「ヨーコさん」は私の名前に読み換えましょう。答えましょう。
どうだろうか。少し長いか。複雑だし。まあ、私の快楽はここにあるのだから仕方のないのかもしれませんが。
ちなみにオノ・ヨーコはどう答えているのでしょうか。見ないようにしておきました。引っ張られそうなので。
正直私はよくわかりません。「一種のミニマル・アート」性も大して感じません。まあ、それで言うと私の答えにも感じませんが。別の質問いってみましょう。
どうだろうか。多少理屈っぽいのは私の本性なのかもしれないので仕方ないのだが、かなりいい答えだと私は思う。「一種のミニマル・アート」性も感じる。私は。オノ・ヨーコの答えはどうだろうか。少し長い。今回は。
ここにはおそらく二つの答えがあります。一つは「実現しているのにそれを認める力がないのではありませんか?」という答え。もう一つは「あなたの思っているようには実現しないかもしれません。」という答え。老夫婦の話は後者の答えのお話だと思います。なぜオノ・ヨーコは前者の答えと後者の答えに異なる振る舞いをしたのでしょうか。前者は答えだけ提示して、後者は答えとそれに関わるお話を提示した。これはどういうことなのでしょうか。
別に私は答えを持っていませんが、私の答えとの関わりで考え始めることはできるかもしれません。というのも、私の答えは後者の答えに似ていると思われるからです。私は「何かが実現するというのは過去の願いと現在の願いが同じ仕方で想像されていることが前提とされています。」と指摘し、その前提は実は正しくないのではないかということを答えのように提示しています。これは言うなれば、過去の願いと現在の願いは異なるのだから、そもそも「想像の仕方、願う方向に問題がある」ことを前提にしなければならないということを言っているのです。おそらく。私は答えらしい答えはまったく提示していませんが、答えるとするならば仮に「実現」したとしても「あなたの思っているようには実現しないかもしれません。」と言っているのです。このことから考えると、オノ・ヨーコの前者の答えはそもそも「実現」していないのではないか?という問い返しを含んでいると考えられます。その問い返しを私はせず、しかしそれに類するものとして前提の検討をしたのです。まあ、どちらが響くかと言えば、確実にオノ・ヨーコでしょう。
さて、私は私の答えと対比させることでオノ・ヨーコの答えのあり方がなんとなくわかってきました。これを構造として取り出したい、言い換えれば「オノ・ヨーコ的Q&A」みたいなものを作り出したいのですが、それをすることはここでの享楽にとって重要なことではありません。少しずつ近づいてきたのでこの調子で模倣していきましょう。
どうでしょう。多少かさばっていると思いますが、私はこのかさばりが好きなのです。無駄ではないと思うのです。私は。オノ・ヨーコはどう答えたのでしょうか。
ああ、オノ・ヨーコのほうが「一種のミニマル・アート」感がある。しかし、思ってみれば、別に「一種のミニマル・アート」感があるのが大事なわけではない。しかも、オノ・ヨーコも別に「一種のミニマル・アート」たろうとしてそのようになったわけではない。そう思うとどうでもよくなってきた。しかし、たまたま、私は上の答えに救われているような気がする。わざわざ「自分」の「一種のミニマル・アート」性を発揮しようとすること、そのどうでもいい取り組みをすること、それを「同じことを繰り返す」ためではなく「享楽」のために行うこと、それが私のしたいことなのである。最後に一つ、別に模倣とか無視して答えよう。何か、質問に。
さて、並走してくれたことに感謝してオノ・ヨーコの答えも併記しておこう。
これは明らかにオノ・ヨーコのほうがいい答えだ。
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