寝そびれ評

寝そびれた。何か書こう。さっき、げんにびという人をフォローした。そして10くらい、ひたすら「人気記事」を読んだ。

ひたすらにさらさらしていて、特に立ち止まることなく、やけに自然な文章で嬉しくなった。パスカルが「人は自然な文章を読むと嬉しくなる」と書いていたことを思い出した。パスカルが好きらしい。げんにびさんは。

いろいろなことが私のまわりを跳んでいる。バリエーションに富んでいる、わけではないと思う。なんというか、ただ、何に対しても同じことを書いている感じがしない。私は何に対しても同じことを書いている感じがする。

どういうリズムで文章を書くのだろうか。げんにびさんは。自然な文章が好みだと言っていたから、もしかすると吸って吐くように書いているのかもしれない。ただ、なんというかそのイメージは合わない。呼吸ではない。

一定の速度で色々なものを超えてゆく。ダイジェスト版を見ているようなリズム感がある。なんだかそれが心地よい。ただ、ベストアルバムのCMのリズム感ではない。

あと、正直さが心地よい。いやもちろん、正直さを装っているだけなのかもしれないが、それだとしても爽やかである。私にもこんな爽やかさがあればいいのに、と微かに思う。

哲学も文学も、私よりも読んでいるのだろうなあ。どうやって読んでいるのだろうか。観光みたいに読んでいる、感じはしないが足取りは、そういう軽さを感じさせる。作品にまとわりつくように、その意味で粘着質な私とは違って、粘液を吹き飛ばす風を待つ、私とは違って。

問いの立て方も素直そのものである。私が「問いを仕立てることが哲学である」と言っているのが馬鹿らしく思えてくる。まあ、別に私はそれが好きだからそれでいいのだが。

問いについて言えば、私も問いそうなものがいくつかある。ただ、どれかを具体的に取り上げる気にはならない。なんというか、そういう人ではない。げんにびさんは。だから良いのだ。フォローしたのだ。いや、フォローしただけ。良いかはわからない。

何が良いのだろうか。自然な千葉雅也性を感じる。なんというか、千葉雅也はもっと詩的なのだが、げんにびさんはもっと、なんと言えばいいんだろう、引き寄せ的である。詩と引き寄せは当然対比としては成り立っていないが。

私はこのようなとき、「成り立っていない」とき、それがなぜ「成り立っていない」のかを考えようとする。げんにびさんはそんなことはしない。するときもあるが、諦めも速い。すごい。

かなり前のことだが、私はある人に「この人の文章は考える余地を残してくれる。」と評されたことがある。なるほど、その人はこのようなことを愛していたのか。たしかにそれは素晴らしいことだ。

こういう軽さ、速さ、私はそれを身につけてみたくなった。もう一度。ばぎゃりりぃとしてもいいのだけれど、すぴゅとぅりぃとしたくもある。ないものねだり?

今回はこれで終わり。

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