寂しさのようなものについて

私はいま、よくわからない、精神状態になっている。いや、なっているのかすらわからない。実はこれまでの私が、異常な精神状態だったのかもしれない。

私はいま、なんだかかなり無気力である。ただ、なんというか、極めつけの無気力という感じではなく、ほどほどに無気力で、しかし別にほどよいわけでもない、そんな微妙な揺蕩いを感じている。

その原因としていくつか挙げられることはある。踊って疲れたとか、久しぶりに友人に会って緊張したとか、コミュニティから離れることを伝えたとか、そういうことが挙げられるかもしれない。しかし、どれも決定的なことではなく、しかしそれでもやはり最後の、コミュニティから離れることを伝えたことは大きな原因なのかもしれない。それを探ってみるくらいには私はそれを信じている。信じたいと思っている。

今日、そのコミュニティのなかでも特に仲の良い、二人の友人に伝えた。色々あって私は何度かそのコミュニティを離れることがあったのだが、結局いつも帰っていた。しかし、今度の別れはおそらく、永久的な別れである。しかし別に、そのコミュニティで会うことに限定しなければ、会おうと思えば会える。しかし、定期的に会うことはなくなる。それがひどく寂しいのかもしれない。

ただ、もしかするとただ単に疲れているだけなのかもしれない。緊張ゆえにしても、踊りゆえにしても。ただ、私は上の原因を選びたい。そんなふうに思っているのである。それくらい、私にとっては重要な、コミュニティ、そして二人だったのである。

その二人の最後の、おそらくそのコミュニティにおける三人では最後のご飯を食べに行った。お寿司を食べに行った。回転寿司。寿司が回っていた。

別に思い出を数え上げようとは思わない。私は湿っぽいのは嫌いである。いや、恐れてさえいる。何度かあったお別れの、機会を喪失し続けてきた。私は。しかし今度は事情が許さず、おそらく別れの機会が喪失されることはない。確実に別れる。もちろん上にも書いたように会えはするのだが。

思ったようにものを考えられず、詩性ばかりが現れて、私はどんどん静かになっていく。この世界の騒がしい、ことはないこの街角で。

夜になる直前、私は部屋の明かりを落とし、そのグラデーションに溶け込もうとしていた。溶け込めはしなかったが、しかしその不可能は、なんだか勇気のようだった。

私はエモい話を書きたいわけではない。そんなことではこの、幾度となく育てられた人間性は満足できない。彼女らは詩性など、大して気にはしていないだろう。けれどもそれでも、やはり彼女らに与えられた詩性はあった。勇気づけられた感性はあったのである。

なにがそんなに悲しいか。寂しいか。君は場を用意して、二人に言葉を贈っているだけなのではないか。それならそれで、今日はいい。本来の意味なんて誰も知らないのだから。文章を書いていて。

私は誰か宛に何か書くのが苦手だ。そのくせ書かれた文章は私宛だとばかり思っている。そんな不均衡が許される、そんなはずなどないのにもかかわらず。

私はした。握手を。その二人と。やけに温かく、湿っていた。手は。私の心はどうだろう。

私は私の心の存在、それを見つけて喜んでいる。これはなにもふざけても、悟ってもいない。真実だ。私はそれに喜んで、みんなが何に喜んでいるか、よくわからないままで居る。

今日くらいは一人でそう、世界のなかでぽつんとそう、生きさせてもらいます。いつもそういうふりをして、素直じゃないこのわたくしですが。

いいなと思ったら応援しよう!