ニヒリズムとメシア
ニヒリズムをメシアニズムとメシア的なものという補助線を引くことで少しでもわかりやすく理解してみたいと思う。
私は最近「努力と成功」について考えていた。その時、このような文章がふと"書かれた"。
「成功」というものに対するニヒリズムは必要であるが、「努力」に対するニヒリズムはまったく不要である。「生きていく」ために、「よく生きる」ためには「努力」をニヒリズムにおいて語ってはならない。それをそのように語ろうとするとき、それに抗う力は「成功」に対するニヒリズムにこそある。
この文章で私が言いたいことはここにすべて書かれている。あとは、読む人のために少しだけわかりやすくすることにする。
「メシアニズム」と「メシア的なもの」に関して少しだけ述べておこう。
高橋哲哉の定義を借りてくるとすれば、「メシアニズム」とは「特定のメシアの現前を予想し、歴史の成就としての終焉を予想する」(『デリダ 脱構築と正義』講談社、2015年。)ことであるとされている。私がここで考えたいことは「歴史」ということには少しも触れられていないのだが、とにかく簡単に言えば、「最後の最後にメシアがなんとかしてくれるっしょ」と考えること、そしてその「メシア」を特定の何かとして考えることを「メシアニズム」として私は捉えている。それに対して「メシア的なもの」とは、「他なるもの、他者の到来としての未来、来るべきものとしての未来へと開かれた経験の構造」(同書)であるとされている。つまり、端的に言えば、「メシアニズム」は「将来」、強く言えば、「約束された将来」に臨む態勢を示していて、「メシア的なもの」は「未来」、強く言えば、「約束されていない未来」に臨む態勢を示していると言える。
私がわざわざこのような補助線を引くのは、ニヒリズムが「メシア的なもの」の喪失として考えられているのにも関わらず「メシアニズム」の喪失として考えられていない、と考えるからである。私はニーチェが「ニヒリズム」において述べたかったのは「メシア的なもの」の喪失ではなく「メシアニズム」の喪失であると考えるのである。また、私は「メシア的なもの」は喪失してはならず、その喪失を喪失にするのが「メシアニズム」であると思っているからこそ上のような文章を知らない間に"書かれた"のである。
私が言いたいのは、「未来を待ち望め」みたいなことではなく「将来を待ち望むな」みたいなことでもない。上の文章をもう一度読んでみよう。
「成功」というものに対するニヒリズムは必要であるが、「努力」に対するニヒリズムはまったく不要である。「生きていく」ために、「よく生きる」ためには「努力」をニヒリズムにおいて語ってはならない。それをそのように語ろうとするとき、それに抗う力は「成功」に対するニヒリズムにこそある。
ここでの主張の要諦は、「努力」を「成功」によって「メシアニズム」的に定義されるものであると定義することによって「努力」を極端に意味づけないほうが良い。ということであり、そのために「成功」を「メシアニズム」的には瓦解させ「メシア的なもの」として再構築する必要があるのではないか。ということである。
ニーチェは「ニヒリズム」について「"かつての"最高価値(神)が価値を失ったこと」と定義した。ここで重要なのはもちろん「最高価値(神)が価値を失った」というところであるが、より重要なのは「かつての」というところである。これを「メシアニズム」的に理解するか、それとも「メシア的なもの」的に理解するか、それが「ニヒリズム」理解の分かれ目である。私は「メシア的なもの」的に理解することにしたい。なぜなら、その方が快楽的だからである。幸福的ではなく快楽的だからである。
この「幸福ではなく快楽」ということについても書きたかったが、今日はアルバイトをして疲れたのでまた今度にしようと思う。
ちなみに、この「幸福ではなく快楽」だけでなく、「ニヒリズム」は「メシア的なものの喪失の恒常態」として考えられるべきではなく「メシアニズム的なものの喪失の恒常態」として考えられるべきであるという「恒常態」という概念に関することや「ニヒリズムを徹底することでニヒリズムを超克する」というニーチェの解決策は上のような理解によってより明確なものとなるのではないかということも書きたかったが眠いので仕方がない。今度書くことにしよう。また、「メシア的なもの」をその時々で生み出すための基礎として「場としての自己」という概念を提示し「メシア的なもの」をその時々に生み出す力をその概念の中にどのように見出していくことができるか、ということについても考えてみたかったし、これが考えたいがためにこのようなことを考えていたところもあるので、いつかはそのことについて書いてみたい。今日は寝る。おやすみなさい。
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