哲学者たちはすれ違う、し、振り返ったり振り返らなかったりしない
次のツイートが話題になっている。らしい。
最近はこういう読書傾向になってしまった pic.twitter.com/QvXJU4Xq1B
— てると (@terutoph) December 16, 2024
私はこれが話題になるということについて考えようとしていた。しかし、それを問題として考えていくために必要な労力とそこで得られそうなものがあまりにも釣り合わないように思われたのでやめた。代わりにここで話題になっているてると氏(と呼ぶことにさっき決めた。)の書いたものを読んでみることにした。ここからはその感想というか、コメントというか、そういうものである。
一番最近投稿された文章を読んだ。以下である。
正直に言うと、よくわからなかった。し、よくわかりたいとも思わなかった。が、これは他人のnoteを読むときによく思うことなので別にどうってことはない。
話の核は「存在肯定」から「生成変化の肯定」に至るときにその根拠として「非意味的切断」を挙げる千葉雅也の議論には「情報洪水」の状況や「情報過多」の状態が充分に顧慮されていないということにあると思う。私は。
私は『動きすぎてはいけない』を読んだこともあるし、『構造と力』も一部は読んでいないが大抵は読んだことがある。だから議論されていることはなんとなくわかる。しかし、だからこそわかっていないのかもしれないとも思った。私はこの文章を。どちらも読んだことがない人にとってこの文章はどのような文章なのだろうか、と思った。
どんどんカタコトになってしまうのだが、正直私はここで言われていることがわからない。が、他のてると氏のものを読んでみたいと思うほどの触発力はこの文章にはなかった。別にだからどうということはない。ただ単にそうだっただけである。
この記事を読まれた方は、半端な読み方であってもいいから、ぜひコメントをいただきたいと思う。或いは、自分で関連記事を作るでも、リプライを送ってもらうでもよいが、ぜひリアクションが欲しい。そうすることで、共同的に語ることができるようになり、次の記事にその知見をお貸ししてもらい、反映することができるというものである。
と、てると氏は書いているけれども、私のものはコメントですらない。ただの感想である。リアクションではあるかもしれない。だから公開してもいいというのは詭弁だろうか。
私はどうも、「XさんはAと主張しているが私はうんちゃらかんちゃら」という主張の仕方が苦手らしい。どうしても違和感があるところで、「でもなあ、」「うーん、」「そうかなあ、」と首をひねり、その少し後にやっと違和感として独り立ちする、そんなリズムが好きなのだ。というか、それしかできない。
あと、うまく受容できない理由があるとすれば、私が「エコーチェンバー」をそれとして経験したことがないとか、「スピリチュアリズム」を知らないとか、他の記事を読んでいないとか、そんなことがあるだろうが、最後は上に書いたようにする気が起きないし、知らないのは仕方がないし、経験したことがないのも仕方がない。「経験したことがない」というのは別に私がその現象のただなかにいるわけではないということを意味しないし、「知らない」というのは別に私がその概念を見かけたこともないということを意味しない。しかし、それらにはリアリティがない。リアリティがない。
そうだ!私はわざわざ「生成変化の肯定」が必要な理由がわからないのである。「切断」を強調しようとしまいと私は紛れもなく「切断」されているし紛れもなく「切断」されていない。しかしそれは「接続」されているということではない。わざわざ「切断」や「接続」をしなくても私には同一性がないし同一性があるのである。一方は単なる現実性によって、もう一方は単なる制度的必然性によって。だから私はやる気が出ないのである。
なんというか、全体的に少なくとも私はリアリティを感じられなかったのだが一瞬だけ私はリアリティを感じた。
わたしなどは、修行として書き続けることが同時に自分なりの接続と切断の同時進行でもあるような訂正のしかたで、書き続けるのである。
ここだ。ただ、改めて読んでみると、どういうことなのかがわからない。
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なるほど。「書き続けること」の中身が「訂正」であり、その中身が「自分なりの接続と切断の同時進行」なのか。そうだよね?違うかな?私は将棋をしているときに盤面を覗き込むように覗き込んでしまった。
私も日々書いていて、「接続と切断」とか「自分なり」とか、そういうことを考えることは、あまりないが、「訂正」し続けているということは、まあ、それもあまりないが、「書き続ける」ことは似ているかもしれない。それだけ?それだけ。にこにこ。
私はただ単に毎日「書き続ける」。なぜなのかと言われても、「暇だから」みたいな理由しか返せない。特にすることがないのだ。書くことくらいしか。だから私は「修行」として「書き続ける」わけではない。ただ、それを「修行」としてやっていることを否定もしないし、肯定もしない。というかそもそも、よくわからないのだからしようがない。しょうがない。わからないのだから。
「なるほどあなたは言語哲学出身なんですね。」と言われるかもしれないが、そもそも私が「存在肯定」も「生成変化の肯定」もよくわからないのは「存在」や「生成変化」をそれとして語ることができないと、少なくとも「肯定」するかそれとも「否定」するかの次元で語ることができるようなものではないと思っている、節がある、からである。だから、別に「肯定」しようと「否定」しようとどうも思わないのであり、思うとすれば「どうしてわざわざ『肯定』もしくは『否定』するんだろう?」ということだけである。で、これは何度でも言っておくが、そういうことをしている人を否定しているわけではない。ただ単に私にはよくわからないのだ。
(ちなみに私は言語哲学出身ではないし、そもそも哲学出身ではない。出身と言われるとよくわからないが、私は哲学科を出ているわけでも哲学科に居るわけでもない。教育学科にいて、大学院も教育系のところにいて、卒業しそびれた。退学した。教育者にはなったが、続けられなかった。一ヶ月くらいで辞めた。ただ、哲学は好きで、大学に入りたての頃から今まで、何年間だ、えーっと、七年間くらいか、してきた。哲学を。別に好きという感じではないかもしれない。それくらいしかし続けることができなかったのである。もしかしたら話が弾むかもしれないので書いておくと、私は木田元の『反哲学入門』から哲学を学び始めて、そこからハイデガー、メルロ=ポンティ、フッサールなどなどを勉強して、そのあとにいわゆる現代思想、フーコー、ドゥルーズ、デリダ、バルト、レヴィ=ストロース、ラカンなどを勉強して、日本の思想、九鬼周造、西田幾多郎、田邊元、和辻哲郎、三木清、などを勉強して、日本の現代思想、千葉雅也、國分功一郎などを勉強して、分析哲学、ウィトゲンシュタイン、クリプキ、アンスコム、ディヴィドソンなどを勉強して、日本の分析哲学、永井均、入不二基義などを勉強して、日本の現代批評、浅田彰、東浩紀などを勉強して、最近はベルクソンやら福尾匠やら、ラカンの学び直しやらをしている。と、振り返ってみたことがなかったので意外と楽しかった。ありがとう。古代哲学、プラトンとかアリストテレスとかパルメニデスとかヘラクレイトスとか、とか、近代哲学、デカルトとかカントとかヘーゲルとかニーチェとかキルケゴールとか、とか、他にもポストコロニアリズムとかフェミニズムとか、勉強したんだけど、いつしたんだろう。まあ、それはいいや。とにかく、私は別に出身とかはなくて、さらに言うならディシプリンもない。大して覚えてもいないし、生きることに活かせてもない。なぜこんなことを言うのかはわからないが、別にそのことを誇っているわけでも悲しんでいるわけでもない。ただ単に来歴を知りたかったのかもしれない。はじめは「言語哲学出身なんですね。」に対抗するつもりだったが、別にどうでもよくなってしまった。)
話したいことはもう少しだけあるが、今日はまとまりそうがないのでこれくらいにしたいと思う。「お前はこれを読めば触発されるはず。」というもの、自身の記事や自身の記事に活かされている著作や作品があれば教えていただければ幸いである。まあ、読むか、見るか、聞くか、そして感じるかはわからないが。ちなみに私の感覚の先駆者としては(おそらく)永井均や入不二基義がいて、前者は『哲学探究』シリーズを、後者は『現実性の問題』を読まれるとよいかもしれない。ここでのわからなさの理解に。二つとも硬いと言えば硬い読み物なので、もう少し柔らかいものがよいとすれば前者は『私・今・そして神』を、後者は『足の裏に影はあるか?ないか?』を読まれるとよいかもしれない。あと、千葉のものなのでもしかしたら既読かもしれない(まあ、永井や入不二も既読かもしれないが。)が、『ドゥルーズの21世紀』所収の「儀礼・戦争機械・自閉症──ルジャンドルからドゥルーズ+ガタリヘ」はあなたの興味のある論稿だと思う。また、永井や入不二の議論と千葉の議論との関係を少なくとも私は『思弁的実在論と現代について』所収の「装置としての人文書──文学と哲学の生成変化論」という対談でなんとなくわかりはじめたのでもしよろしければ読んでみていただけると助かる。
最後はおせっかいになってしまって申し訳ない気持ちが半分くらいあるが、またどこかでお見かけする機会があればよろしくお願いします。哲学を愉しんでいきましょう。