身体的想像力の研鑽

「「いま、ここ、わたし」から「いつか、どこか、だれか」まで身体的想像力を働かせ、その遠地にて踊れるか。「いま」から身体を引き剥がし、「ここ」から身体の神秘的経験を用いて飛び立ち、「わたし」から「だれか」まで一筋の稲妻のように奔れるか。」
(2021/3/30「挨拶」より)

身体的な想像力について考えることは倫理的な態度とは何か、ということを考えるということであり、その奥に透けるのは「仙人はどのような身体の仕組みをしているのか。」という身体の解剖への基礎である。
つまり、私たちは身体の想像力について考える時、「いま、ここ、わたし」から「いつか、どこか、だれか」まですべてを意識するという偉業を成し遂げることを目的としているのである。
そのことについてヴァレリーはとても参考になる。

「私たちはあまりに見事に所有されているのに自分自身が所有者であると感じる」

これはヴァレリーの「カイエ」というものに書かれていることである。
ここでは、詩という装置によって行為する読者の状況を捉えている。
つまり、この表現に親しめば、作品によって動かされているのに私が動かしているという感覚が十全にある、という状態を詩という装置は生み出すということになる。
このことについて理解することは難しいだろうか。
私としては「ああ、やっと表現への道が照らされた。」と思った。
というのも、私はこの「動かされていながら動いている」ということをどのように表現するか迷っているからである。
それは制限によって得られる自由という実感として記憶されているし、私自身も「踊る」ときに強くそれを感じる。
そのとき、私は「振り」を踊っているのであるが、私が振りをまるで創造し直しているような気持ちがそれを完成させているのである。
踊りというのはそういうところがある。詩についても、哲学についても、「私が主体的に行為しているように感じるが私を通じて何かがしているとしか思えない」という感覚になることがあるのである。
そして、そのときの創造は例外なく豊かである。
私の拙い評価の能力でさえそれは圧倒的だと認められる。
だから私はヴァレリーの言葉に圧倒的な肉付けを行うことができたのである。

と、翻って身体の想像力に話を戻すが、ヴァレリーのいうことを参考にするとすれば、私が引用してきた文章で述べているのは、「いつか、どこか、だれか」が「動かされていた」仕方で動かされるために身体の限界を超えてゆけ、ということになると思う。
もちろんこれはヴァレリーに接触した、改めて接触した最近の出来事がそう考えさせているのであるが、予感はそこでもあった。
私は書き方を変え、この予感を保持してきた。
「動かされながら動く」ということを覚えるために私はシュルレアリスムやヴァレリーに接触したというのは言い過ぎであるが、そう思えないことはないほどにそれらは明晰な道を照らしている。
私がここからなすべきなのは引用された文章の後半に書かれていることの意味を理解すること、価値を体現することである。

「いま」から身体を引き剥がし、「ここ」から身体の神秘的経験を用いて飛び立ち、「わたし」から「だれか」まで一筋の稲妻のように奔れるか。

これらの表現はとてもイメージ的であるから理解し切ることは難しいだろうが、この表現が間違っていると私には思えない。
つまり、これらの言葉が起こすイメージが身体的な想像力を損なうとは思えないのである。
では実際にはどのような方向性を持ってこの鍛錬を始めるか、と言えば、小林秀雄の言葉が頼りになる。 

歴史家とは過去を研究するのではない。過去をうまく蘇らせる人を歴史家というのです。

これはそのまま身体的な想像力についての文章である。
つまり、「いつか、どこか、だれか」を甦らせることのできる人がすぐれた身体的想像力を持つのである。
と、ここまで割と淡白に書いてきたが、ここからが問題である。
というのも、「どうしてわざわざ身体的想像力を鍛えなければならないか。」という問いが私の前に立っているからである。
私の答えは「他者を迎え入れられるような創造をするため」である。
これはたくさんのところで言っているし、『乱置』の草稿にも

・あなたは何をイメージして「乱置」を始めようと言うのか。
少々イメージになってしまうが、「他者」を迎え入れるための創造性の準備として「乱置」をすすめたいのである。つまり、予感を準備する力を育てる基礎が「乱置」なのである。それは論理への侮辱でも、意味への偏屈でもない仕方でなされるべきである。

ということが書かれている。
他者を迎えるために創造の力を鍛えるということがよくわからないかもしれないが、簡単に言えば突然現れる最も他者的な他者、記憶にも予感にも存在しなかった他者を迎え入れるためには新しい態度や倫理を想像しなければならないということである。
まったく知らない人とコミュニケーションをするためには創造が不可欠であり、身体的な想像力は「動かされながら動いている」という仕方で快楽的であるから、それを続ける意欲もまた存在するのである。
こんなことを言うと、「そんな他者など現れるか。」と言われるかもしれないが、それはわからない。
他者というのは突然現れるのだから。
私たちが他者と呼んでいるのは他者ではない。

『異邦人』に出てくる彼が私たちにとっての他者であることは明白にわかるだろうけれど、彼のための倫理を創造しようという欲求が私たちにはあるのである。
それはたしかにカタログ化に他ならないかもしれない。
しかし、そのカタログは前までのカタログとは違うものである。
そしてそれは創造に他ならない。新しい態度や倫理を生んだのだから。
そのことについて考えるとすれば、「来るべき他者を迎え入れるための身体的想像力の鍛錬」として「いつか、どこか、だれか」を迎え入れる行為をすることは正しいことではないだろうか。
いまは変化の激しい時代である。
ということはもはや恥ずかしいので言わないが、そのために、いや、私はそのためと限定することこそが創造的でないと思うが、その鍛錬は価値あることなのである。
そして私は「他者」ということを通してとても極端なことを述べてきたが、その志向性はリダンダンシーの拡充に他ならない。
その鍛錬は簡単に言えば、「受け容れる」ことを鍛えることなのである。
「乱置」はそのことの先鋭化であるべきだ。
私がとりあえず言えるのはここまでである。

原文
https://note.com/0010312310/n/n0443bc99c9a4

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