あるアルバムに対するあるときの感想
釈迦坊主の『HEISEI』というアルバムを聴く。感想を書く。(曲名は「曲名」という書き方をする。)
ちなみにもう「Plasma」、三曲目まで来てしまっている。二曲目「Tokyo Android」は「なぜか急に歌詞が聞こえる」の純粋な快楽としての「アイマトーキョーアンドロイド」があったなあ。歌詞がいいから聞こえるようになるとかではなく、聞こえてもよくわからないが聞こえて嬉しいという、そういう赤ん坊的な嬉しさ。言葉が言葉として聞こえるという、そういう嬉しさ。
ちなみに良かった曲はプレイリストに入れる。雑多なプレイリストと洗練されたプレイリスト。四曲目。「I am bose」。良かった。どっちにも入れた。
感想を書くだけじゃああれだが、まあそれでもいいが、なんとかいい感じにできたらいいな。なんとかいい感じに。
全部、と言ってもまだ「Moon City」だが、暗い部屋と明るいパソコン感がある。私は寝る前いつもみんなが話している。喧騒のなか寝ているのだが、そういう感じもする。なんというか、静かになりきれないけれども、みたいな。これは音楽に特有の沈黙という感じがして、それで心地がよい。音楽を聴いているときだけ静か。私はそういう感じがする。ただ、イヤホンを外して、世界がざらざら、せせらぎがさらさら、そんな感じも好き。耳触り。それが極めて触り的に存在していて、それもいい感じ。まあ、これもリズムの成果で、どちらかだけだと狂っちゃう。
たまに入るSkit。HIPHOPのアルバムにはたまに入るSkit。喋り声の人もいるけれど、釈迦坊主はそうじゃない。それもたぶん、上で書いたような感性と関係が深い。喋っているときが静かな人もたくさんいると思う。沈黙の形態。
これを朝に聴いたり昼に聴いたりしたらどう聞こえるのだろう。いまは夜で、おそらく適切なタイミング。このアルバムを聴くのは二回目くらい。だからなんとなく知っていた。
どういう関係のもとにあるか。存在する仕方はそれによって変わる。イヤホンを外す、孤独が失われる。孤独すぎる。適切な孤独。
そうだよなあ。これはここには関係ない話だが、創造性が徹底的な受動性から生まれているというのはそう考えないと気分に代表されるような変化、どうしようもなく生じちゃった変化が意味わからなさ過ぎちゃうからそう考えるんだよなあ。
あ、ちなみにここで行っているのは「ただ聞く」ということで、これは福尾匠が「われわれはイメージを見るかわりに、「消費」を、「コミュニケーション」を、「インタラクション」をひっきりなしに要求されている。本書[=『眼がスクリーンになるとき』:引用者]は「たんに見る」ことの難しさと創造性をめぐって書かれる。」(『眼がスクリーンになるとき』 16頁)と言っていることの「聞く」バージョンである。あ、あと一つ前の関係ないと言われた話も『眼がスクリーンになるとき』、特に文庫版の最後に収録されている座談会に由来する話である。
どこかに居ないと何も聞こえないし、何かがないと音は存在しない。『眼がスクリーンになるとき』の主題たる『シネマ』という本。映画の本。そこでも音は多少触れられるけれど、それは(私の記憶が間違いでなければ)指示的だった。これは音楽で、けれども指示的でもある。上で「暗い部屋と明るいパソコン感」と言ったようにある場所に座らされている感じがする。目の前にパソコンがあってそこからしか音が聞こえていない感じがする。喧騒の形態。
「Red Pyramid」が急に眠りっぽい。まあ、眠気というか、深夜感はずっとあったのだが。私は「Black Hole」にある「お前はチワワに服を着せる」に深夜のバイブスを感じたのだが、それが眠気に行った。というか、覚醒とぼんじゃり(ぼんやりとじゃりじゃりを合わせた言葉)が繰り返される感じが寝ているようにも感じられる。眠たくなってきた。今日はお昼寝をしていない。
深くなってきた。眠り。「Terra」。星っぽい音。きらきゅんきらきゅんしてる。最近やたらと夢を見る。よく眠れていないのだろう。そういう音に聞こえてきた。これはいまの感想。変わる感想。ドゥルーズのコペルニクス的転回。同一性から差異へ。起きそう。音が。
いまの印象。最後の曲である「ほたる」を聴いていないが、ここまでの印象を言えば18時から6時までの12時間のアルバムって感じがする。
「ほたる」を聴いた。朝が来た。感じがした。6時から18時。そこには何があるのだろう。難しいなあ。というか、逆の可能性もあるか。実はこのアルバムは6時から18時のアルバムである可能性も。
歌詞を聞くともっといい感じな気がする。釈迦坊主は。けれど、今回は聴感だけでこんな感じの感想。読み直して少し手直しして、今日はおしまい。
補遺
ここからは上で言及した『眼がスクリーンになるとき』(河出文庫)の座談会を読み直しつつ考えたことを書いている。私はこういうのがとても好きで、勝手にこここそがサビだと思っていることも多い。ただ、他人が読むように書けているかと問われれば自信はないので物好きな人は読んでもらえればと思う。
「感想を掴み切る」ということにとって困難なのは「消費」でも「コミュニケーション」でも「インタラクション」でもなく「同一性」であろう。「差異」であろう。
まあ、こんなふうに言ったら「お前そんなにいろんな感想書いてないぞ。」みたいに言われると思うが。
喧嘩腰でいくなら「わかっとんねん。ただその原因は言語化の稚拙さにあるわけじゃないって言っとんねん。」みたいになるだろう。
「見る」と「聞く」はたしかに違うし、それはとても重要なのだが、その違いよりも私と私のあいだの違いの方が大きい気がするのである。
「たんに受容する」というふうに言ったところでその「たんに」性はある方法で担保されるしかない。まあ、こんなことを言いたいんじゃないと思うんだけれど。私。
そうか。受動性だけじゃなくて自動性の話もしていたのか。読み直してやっと気がついた。自動性ならまだ理解できる。「癖」とか「偏り」とかいう言い方で。まあ、それも結局「まとめる」みたいな作業が必要なんだけど。
うーん、なんというか、山本浩貴が「「真に受ける」の「真」は読み見る者からするとそうとしか受け取れない受動的な「真実」だけれど、外から見ると独自の踏み込み方をした能動的でクリエイティブなもののように感じられる。ここのずれはとても重要ですよね。」(『眼がスクリーンになるとき』(河出文庫)347頁)というふうに非常にうまく言っていて、だからこそ思うのは「真実」というまとめ方をするときに「癖」とか「偏り」とか、そういう短中期の「真実」性は溢れてしまって、なんというか結局キャラクター的になっちゃう感じがするということですよね。まあ、仕方ないと言えば仕方ないと思うんですけれど。ここでも自動性は意識してかせずか消えてしまってますし。
なんか、さっきのやつも途中からちょっと頑張っちゃったんだよなあ。「たんに見る」から書くとか広げるとかに。
私は私の些細な違いには気がついてあげたい感じがあるんですよね。それを一緒くたにするなら書いている意味がないというか、そんな感じすらしちゃうんですよね。そうなると、やっぱりドゥルーズとかはベルクソンへの感想を本にしちゃってて、そこで大義名分ができちゃってる気がするんですよね。「ドゥルーズはベルクソンをこう読んだんだ」みたいな。その読み方をどう解釈しようとそれは変わらないことで、私はそのことに違和感があるわけです。
なんというか、「思考のリレー」(『眼がスクリーンになるとき』(河出文庫)349頁)というのはベルクソンとドゥルーズ、ドゥルーズと福尾、みたいなところで起こるんじゃなくて、もちろんそこでも起こるけれど、私と私のあいだに起こっていて、私はそれを肯定したいわけです。それが私なりのコミュニケーションなんです。孤独に見えるかもしれませんが。
「僕が重きを置きたいのは、その、作られたものとして見出す側の勝手さと、作ったと勝手にされるひとの実情としての自動性というか自己完結性というか、そのカップリングなんだと思います。」(『眼がスクリーンになるとき』(河出文庫)351頁)福尾のこのバイブスと認識はよくわかる。ただ、私はこの「カップリング」ではなくて「実情としての自動性というか自己完結性というか」というものを「実情」にする何か、その集まり感というか、そういうものを考えたい。そうなると福尾の「勝手さ」に対して何を打ち出すか、と言われると、「適当さ」みたいなことになる。福尾の「勝手さ」が批評の文脈で存在するものなのだとしたら、私のそれはどの文脈に存在するのだろうか。そこが私にはよくわかっていない。し、別にわからなくてもいいかな、くらいに思っている。困ったことかもしれないが。誰が困るかは知らないが。
山本は自身のバイブスを「勝手さ」よりも「とても重たい言葉」である「引き受け」や「責任」、「運命」や「拘束」に見ていると言い、そこでの課題を「何かしらの対象を前にして「そこにこういう表現がある」と自身の体が感じてしまったこと、あるいはそのように感じるような傾向や歴史性を自身の体が培ってきてしまったことを、どう自ら受け止め組み換えていくべきなのか」にあると言う(『眼がスクリーンになるとき』(河出文庫)351-352頁)。そのあとの話も勘案すると、ここには「作り手/受け手」「軽い/重たい」「勝手/適当」みたいな対比軸がぎゅのんぎゅのんしている感じがする。しかも、対比軸同士の関係もぎゅろりんぎゅろりんしていて、私にはまったく見渡せない。ただたんに違和感があって、それが居場所を探している感じ。いまは。
一旦お風呂!
帰ってきた。うーん。山本の「書き直し」とか「アトリエ」とか、そういうことはやっぱり「組み換え」に向かっていて、私はむしろ「組み換え」も一つの有限化だと思っていて、言い換えれば要素化して「まとめる」ことだと思っていて、もっとぎゅおんぎゅおん変化しているなかでなんとか「まとめる」必要があるんだと思うんですよね。そういう場面があると思うんですよね。そこでの多様な方法があるだけという感じで、なんだか福尾とも山本とも違う。
明日も曲の感想を書くとしたら、それはおそらく違うものになるんですよね。もちろん、ある程度は覚えているからそれに寄るということはあると思いますけど。それと「癖」とか「偏り」とかは違う次元にあると私は思っていて……
「もうちょいコミュニケーション取ろうとしましょうよ。」と言われると「はい。すみません。」とは思う。ただそれは私が彼らにコミュニケートできていないからであって、それは回路が出来上がっていないに過ぎない。私自体はもはや変わらない。変えることもできるが、それはこの話の線とは違うところでそうであるだけである。
「いわば「アトリエ」が無断で設営されることによって初めてこの私がこの私として素朴に「ただ見る」ことは可能になる」(『眼がスクリーンになるとき』(河出文庫)355頁)。山本の言っていることは間違ってはいないが、「アトリエ」も「この私」も「まとめる」こと、ここでの言い方で言えば「設営」されることによって可能になるのであって、それがそもそも困難だと私は言っているのである。その困難さを解決するという問題感がここには感じられない。私は。「下準備ではあるけど……」みたいに見えちゃう。私は。
なんというかね、やりにいっちゃった、みたいな恥ずかしさが私はあるんですよ。「アトリエ」や「この私」をいくら整えようとその恥ずかしさがある。「自分なりにやっていいんだ」(『眼がスクリーンになるとき』(河出文庫)356頁)という感じ、そういう感じをわざわざ確保する必要性を感じないんですよ。バイブスがないんですよ。しかも別にそれを悪いことだとも思ってないんですよ。私は。
「引用」と「理論」、「作品記述(ディスクリプション)」についての黒嵜の評はなんとなくわかった感じがする。私は「作品記述(ディスクリプション)」が苦手なのである。いや、やらないだけだとも言えるが、とにかくあまりやらないのである。それはなぜなのか。正しい読みへの恐れか、キャラ作りへの恥ずかしさか、おそらくどちらかだと思うのだが、上のことを踏まえると恥ずかしさなのだろうか。というか、私は作品をコミュニカティブにするのが苦手なのである。これは明らかに苦手で、アーギュメントとレトリックを区別するのも苦手なのである。アナロジーを節制するのも苦手だし。しかもその苦手はジャンキーの動きすぎでも知識人の動きすぎでもない。(この「動きすぎ」の議論は「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない。
<中略>これは、自己破壊としての生成変化の加速しすぎ、オーバードーズないしバッド・トリップへの警戒でもあるのではないか。自意識の暴走(知識人の動きすぎ)と、無意識の暴走(ジャンキーの動きすぎ)を、どちらも節約すること。」(『動きすぎてはいけない』(河出文庫)66頁)に由来する。が、私は別に「生成変化を乱したくな」いと思っているわけではない。おそらく。)その時々の「アトリエ」や「この私」が「偏り」すぎているという意味で苦手なのである。「癖」にすらならない「偏り」の次元での。まあ、アーギュメントとレトリックの区別が苦手なのは単純に鍛錬が足りていないからなのかもしれないが。だからこの鍛練さえ積めばなんとかなるところもあるにはあると思う。が、やっぱりなんとかならないところもあると思う。
さて、もう一度聴く元気はない。今日は眠たい。明日は起きる。眠ろう眠ろう。まだ発展途上なのだと言われればその通りだとは思うが、その限りではないような気もする。気もする。