改作と鑑賞2

少しだけ「改作と鑑賞」をしましょう。することと言えば、年始から作ってきた句を鑑賞したり改作したり、それだけです。改作の場合は→のあとに改作後の作品を書きます。鑑賞の場合は元々の句の後に鑑賞を書きます。ただそれだけのことです。前回はすぐあとに置いておくので雰囲気が分からなければ読んでくださるといいかもしれません。まあ別に、ここからを見れば感じがわかると思いますが。前回のものも別の鑑賞や改作に開かれているでしょうけれど、続きからしましょう。1/18から。

1/18

伸びをする世界が伸び縮みする

これは季語がないので俳句ではないかもしれません。もちろん無季の句としてもいいですが、それにしては詩性がありません。散文であるように思います。のちに改作した記憶があるのでさらに改作したい場合はそこでしたいと思います。

脳内に踊り居る君冬の音

なんというか、散漫な印象を受けます。心をとらえたものはあったのでしょうけれど、それが俳句にはなっていません。あと、「脳内に」というところから良い句を作るのは非常に難しいように思います。ダメだダメだ、と言ってばかりでは感心しないので頑張って改作してみましょうか。

→踊り子や薄雪囲う舞台来し

なんかねえ、イメージはいいんですよ。薄雪があって、薄く雪が積もっていて、そこで踊るんですね。するとそこだけ溶けていって、それが舞台となるわけです。そして、それをまるで見越していたかのように薄雪のなかに歩いてきた跡がある。そんな感じですよね。ただ、少し説明的過ぎる気がしますね。うん。もう少し頑張ってみますか。時間はないですけど。

いやあ、ちょっと難しいっすね。曖昧過ぎますね。元のやつが。

のびちぢみする世界がのびちぢみする

これは二つ前の改作でしょうけれど、「のびをする世界がのびちぢみする」じゃだめなんでしょうか。この日ではないですけど他の日にそう書いた気がします。そっちのほうがいいような、そんな感じが私はします。まあ、音数を揃えればここで書かれているものもよくなるかもしれません。

→のびちぢみ春と世界がのびちぢみする

なんか、別の趣が出てきましたね。まだ甘いっすけど。ただ、元々の趣の一つに「世界」を挟んで左よりも右が長いという、そしてリフレインすれば句が句意を再現するみたいな感じがあったので、それを残す道もありそうです。

私はね空の果てそう冬銀河

これ、私は好きなんですけど、リズムが難しいかもしれませんね。勝手にリズムをつけて申し訳ないですけど、そのリズムを強調するとすれば、「私はね、空の果て(、)そう、冬銀河」となると思います。「(、)」が大事なんですね。まるで誰かが、「冬銀河?」と聞いたみたいな、そんなリズムが好きなんですね。まあ、正直それだけだと言われればそうです。ただ、「冬銀河」である必然性はあると思うんですよ。ただそれをうまく説明することはできませんけれど。私程度では。私がもっと読めるようになればできるようになるかもしれません。

巨きい人ビッグ・ベン本棚冬の朝

なんか改作も難しいですね。四つ並べただけですから。もちろん「巨きい人」と「ビッグベン」とというコンビと書かれてませんけど「冬の朝」にいる私と「本棚」というコンビとが同じだということが言いたいんでしょうけど、何かを削らないとなんともなりません。ゴツゴツしすぎです。ただ、なんとかする力もありません。いまの私には。

恋愛といふ特別の冬籠り

私は「恋愛」というものがよく分からないんですね。「冬籠り」のなかで「特別」であることがよくわからない、と言うことで微かに抵抗しているわけですね。で、「いう」を「いふ」にしているのも、昔からそういう人がいたんじゃないかなあ、っていううっすらとした呼びかけなんですね。呼びかけというよりも、なんというか、「寂しいなあ」と一緒に思ってくれますよね、というゆったりとした恫喝なんですね。まあ、もう少し上手くできる気もします。観念的過ぎる感じがするので。ただ、今日はなんだか調子が悪いのか、それとも元々こんな感じなのかわかりませんけど、改作はできそうにありません。前回はいい感じにできたんですけど。

トリヴィアルな瑣事たちよそれ小さき事

俳句ではないっすね。ただ、地球と粒子をおんなじ感じで見る感じで出来事を見るという感じはいい発想だと思いますよ。時間がないんで急いでいきますね。いや、間に合わないので続きは後でしましょう。仕事の昼休みに。

網戸過ぐ恋のかたまり夜半の春
→ 網戸過ぐ春膨らみて恋となる
→網戸過ぐ春のかたまり膨らめり

戻りました。この句には元ネタというか、そういうものがあります。それが作者が過去に書いた「君に会いたい夜は、網戸の一つ一つから君の塊が膨張して私の部屋を埋めるんだ。」という詩です。これを翻案して、俳味を出そうとしたのがこの句です。別に元々の句が悪いと思ったから改作したわけではなく、可能性があると思って改作しました。もとの詩のホログラムとしてこれらがあります。

本棚の一角を取り冬籠り

手を大きくして、ガバッと取った感じがして、籠るぞ!という決意とともに軽やかさを感じさせますね。仮にこれが「本棚の一部を取りて冬籠り」みたいな感じだと散文的過ぎますが「一角」だとパッとした把握が感じられますね。あと、「取り」と「冬籠り」の「り」のリズムも気持ちがいいですね。

それまでもこれまでもこれからも本

難しいですね。なにを考えて書いたのか、まったくわかりません。「それ」と「これ」を「本」が繋いでいる感じがして、「まで」が「本」という物体によって二重化した感じがします。読もうとすれば、ですが。拒否する感じすらありますね。こちらを。

イタリアの表紙に思えり冬の青

発想自体はとてもいいんですけど、もう少し整えたい感じもしますね。ただ、「イタリアの表紙に思へり冬の青」だと「イタリア」が浮きすぎな感じもするんですよね。だからと言って「伊太利亜の表紙に思へり冬の青」にすると「冬の青」が弱まっちゃいますし、なのであいだをとってこれですね。はい。まあ、「イタリアの表紙に思へり冬の青」はいいっちゃいいですけど。

時計ある方向見たり冬日差し

部屋の中で時計がありそうな方向ってありますよね。そこの奥に冬の日差しがあるんだ、という把握ですね。おそらく。素晴らしい句だと私は思いますけど、意味が、詩情が取りにくいと言えばそうですね。ただ、改作する必要はないと思います。

稜線をなぞって春うららかなり

これはあとに改作したものがあるので軽くいきますけど、改作の理由は「春」と「うららか」が季重なりしていることですね。ただ、その畳み掛ける感じにも小さな呪術感(これは前回私がこの作者の作品に見られる特徴として見つけたものです。)があっていいと考えることもできるかもしれません。ただ、音数もずれていると、全体としてズレ過ぎな感じもします。なので以下のように改作してみましょう。

→稜線を指でなぞりて春うらら

どうでしょう。私はいい感じだと思います。まあ、反射で「春うららとは言わないぞ!」と思っちゃうという障壁が俳句をやっている人にはあるかもしれませんが。

冬眠のための準備と人は言う

私たちは冬眠しません。だから冬眠のなんたるかを知りません。動物たちのある行動に「冬眠」という名前をつけているだけです。そして、その行動は単独のことではなく幅を持ったものなので、その始まりに見えるものはたいてい「冬眠の準備」と言われるでしょう。それを「冬眠」する動物たちは「人」という動物はそういうことを「言う」と言っているのです。

稜線をなぞって我うららかなり

次のやつと二つで読みます。

稜線をなぞって空うららかなり

なんだか焦点化しようとして逆に、春のエネルギーを充填しようとして逆に上手くいっていない感じが私はします。音数が悪いんでしょうか。「稜線をなぞって我のうららかなり」や「稜線をなぞって空のうららかなり」ならまだマシなのでしょうか。うーん、なんともそういう感じはしません。以下のような改作がいいと思います。

→稜線をなぞりて指のうららなり

指先に花粉みたいな春がついている感じがしますね。「指」という具体物が大事なのでしょうね。「なぞる」と言えば「指」が多いでしょうから余計だと思われるかもしれませんが、この場合はよいと思います。呪術に身体は必要なのでしょうかね。そんな感じがします。

とにもかくにも兎に角はありますよ

これはすごい句ですよね。「とにもかくにも」自体はこれくらい字余りしてそうですし、「とにもかくにも」と言う人は「兎に角はあります」と言ってそうですし。「よ」は少し呆れて、異世界の住人に説明しているような感じがしますね。話している人が異世界にいるのか、話されている人が異世界にいるのかはわかりませんけど。

裸木の空の末梢神経となる
→裸木や末梢神経尖りけり

元のやつも好きなんですけど、句としてはクオリティが低いですね。改作後のやつはそれこそ尖りすぎかもしれませんけど、冬の感じがあっていいですね。芥川龍之介の「木の枝の瓦にさはる暑さかな」という句を思い出しました。私は。冴えちゃって、疲れちゃって、尖っちゃって、みたいな、そんな感じがします。いい感じです。

この「改作と鑑賞」は推敲をしないことにしています。危険なので。無限なので。なので誤字があったら各自頭の中で修正しておいてください。

詩作の楽しみは改作の楽しみである。改作の楽しみはイデアの楽しみである。イデアの楽しみは模像の楽しみである。模像の楽しみはホログラムの楽しみである。ホログラムの楽しみは詩人の楽しみである。

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