星野太『美学のプラクティス』を読みはじめる

星野太『美学のプラクティス』を軽く読もう。「軽く読む」というのはメモをせずに、あまり立ち止まらずに読むということである。私にとって「読む」というのは基本的にメモをして、立ち止まって読むことである。しかし、いまの私にはそんな元気も余裕もないのでとりあえず軽く読んでみたいということである。

とりあえず目次を読む。ちなみに私は星野の名前くらいは知っているが本は読んだことがない。柔らかい側方性、みたいなイメージがある。

評論集かな。たぶん。私は結構何も知らずにイメージ先行で本を買う。この本については上に書いたような著者のイメージと著者が書いている本の全体(と言っても浅く見渡しているだけであるが)を見て買った。特に迷いもせず。お金もないのに。

とりあえず初出一覧を読む。

あまり普段読まない雑誌や本に寄せられた論稿が基本らしい。なるほど。

「はじめに」みたいなものはないので「あとがき」から読もう。いまのところ興味があるのは第Ⅲ部、「生命」と題されたところに位置付けられている「生成と消滅の秩序」、「生きているとはどういうことか──ボリス・グロイスにおける生の哲学」、「第一哲学としての美学──グレアム・ハーマンの存在論」という三つの論稿である。あと、序論の「美学、この不純なる領域」も気になる。とりあえず「あとがき」を読もう。

どこから読んでも問題はなさそうだが、序論から読もう。こういう評論集的なものはどうしても内に閉じこもってしまいがちである。興味があるものばかり読んでしまって。まあ、それはいい。とりあえず序論から読もう。「から」と言っても序論ですら最後まで読めるかわからない。

なんというか、私には美は「説明しがたい」ものであるとしても素敵さはそうではないという確信がある。なぜかある。だからあまり、ここ(13頁)までの話を理解できない。ふわふわとしか理解できない。実感があまりないのだ。美学の「居心地の悪さ」について。まあ、始まったばかりである。まだ序論は終わっていない。

最近私は自分の句作に窮屈さを感じている。しかし、それがなんなのか、私にはわからない。私はやめておくではなく書いておくに移行することを自分推奨する(「自分に推奨する」というのは変な言い方かもしれないが実感としてそう言う感じなのである。)ことでそれに対処しようとしている。対処中なので善悪はわからないが、とりあえずそうしている。

「政治と美学」と称される節を読んでの感想ではないような感想。触発された、という宣言。ただの宣言。私は私のこの、放り投げるような、しかもそれが自由であるとは言わないような、ある種のパンクさが好きである。

本の構成を示すところの直前まで来た。直前を引用しよう。特にコメントするつもりはない。触発と連想のあいだみたいなことをする気はする。

ここまでの議論からは、「純粋性」へとむかう倫理的な傾きを批判し、美学や政治における「曖昧さ」や「不純さ」をあくまでも確保しようとするランシエールの立場を見て取ることができる。とはいえ、こうした図式においては、「美学」「政治」「倫理」というそれぞれの領域が、いささか素朴なしかたで画定されているという印象もまたぬぐえない。ここでランシエールは、美学や政治を倫理に収斂させる昨今の風潮を批判しているが、そうしたランシエールの立場もまた、美学および政治を倫理から隔てておこうとする、ひとつの規範的な立場を示しているのではないか。そのような意味で、美学を「擁護する」ことがおのれの目的ではないという意思表示に反して、ランシエールはすくなくともここで、「美学=政治」の不純さにおいてそれを擁護する、というひとつの「倫理的立場」を表明していると言えるだろう。
22頁

あらゆることが態度として受け取られること、そしてその態度が立場にまでescalationすること。それ自体が「倫理的な傾き」であるとするならば、ここで星野がランシエールに指摘していることがそもそも指摘できるのかが問題になるのではないかと思う。

このあとに星野は「本書に収められた文章は、これらの問題意識のもと」に書かれたと言っているが、「これらの問題意識」というのに私が一つ前の段落で言ったことは入っているのだろうか。そのことが気になった。

当初、私が思い浮かべていたのは古田徹也が『謝罪論』で考察していた、いや、遡れば『言葉の魂の哲学』でも考察していた、一つのフレーズが持つ「曖昧さ」や「不純さ」のことである。

色々思いつくことはあるが、とりあえず進もう。

基本的には最初から読んでいってほしいらしい。同居人がお風呂からあがってきた。

「各部の導入には、展覧会カタログなどに寄せた比較的短い文章を選び、そのあとにやや長めの論文が続くという構成」(23頁)が取られているらしいのでとりあえず各部の最初の文章を読もう。

第Ⅰ部「崇高」のはじめの文章、「カタストロフと崇高」の最後を引用しよう。例によってやることは決まっていない。とりあえず引用してみるだけである。

重要なのは、魅惑と拒絶が入り交じる、その曖昧で仄暗い感情[=崇高:引用者]から目を背けないことだ。その感情を抑圧しつづけるかぎり、人はカタストロフによる崩壊を埋めあわせるための、偽の紐帯に屈することをまぬがれない。ばらばらになった人々に連帯を呼びかける「美しい」言葉には、真摯なものといかがわしいものとがある。自然と人為の別を問わず、そうしたカタストロフのあとに、後者のたぐいの言葉がかわるがわる考案されていくさまを、われわれはこれまで何度も目にしてきたではないか。そうした紐帯に回収されずにいるためには、独善的ではなく、かといって脆弱でもない、みずからの小さな領土を確保するための技術(アート)が必要である。そこに欠くことのできないものがあるとすれば、それはいかにももっともらしい畏敬や憐憫の感情ではなく、自分が安全な場を占めてしまったことによる、一抹の疚しさであるだろう──それを道徳的な感情とよぶべきかどうか、わたしにはまだわからない。
33頁

二つのことを思った。思った順番通りに書こう。忘れそうなので先になんとなく掴んでおく。一つは、えっと、あれ、ああ、あれだ、「性的惹かれ」という概念についての解釈の手前にある、「惹かれ」を先行させるか、「性的な」を先行させるか、という問題は態度に還元されるようなものなのか、ということである。もう一つは、えーっと、説明するのが難しいのでこちらについてまず話そう。

私はかつてガソリンスタンドで働いていた。私が働いていたガソリンスタンドにはピットと呼ばれる作業をする場所があった。その場所は閉店時にシャッターが閉まる。ある日、私は見ていた。シャッターが閉まりきると挟まれ、おそらく割れるであろう青いバケツを。シャッターが下りていくさまを。そして、それを見ていた人に怒られた。いや、呆れられたと言ったほうがいいかもしれない。「どうして止めなかったんだ!」と言われた。私はその怒り、呆れはまっとうだと思った。私はシャッターが閉まるのを止める仕方を知っていたし、止めようとすれば余裕で間に合ったからである。しかし、まっとうだと思いつつも、どこか腑に落ちない感じがしていた。「お前はやっぱり変なやつだ。」みたいな態度に不機嫌になっていたのかもしれないが、そうではないとすると、私はそのとき、上で言われている、「自然と人為の別を問わず、そうしたカタストロフのあとに、後者のたぐいの言葉がかわるがわる考案されていくさま」に違和感を感じていたのかもしれない。そんなことを思った。

もう一つのほうはいいかな。最近出た本(未読である。し、所有もしていない。)に松浦優『アセクシュアルアロマンティック入門 性的惹かれや恋愛感情を持たない人たち』という本があり、その関連で上のようなことを思ったのである。

行動を行為をするには理由が必要であり、それは適切である必要がある。おそらく「性的惹かれ」とか「恋愛感情」とか、そういうものは「適切である」範囲を画定することに一役買っていると思うのだが、そのことと上の引用が似ていると思ったのである。というか、この二つを「似ている」と思うことで「行動を行為をするには理由が必要であり、それは適切である必要がある。」ということが明確に意識されたのである。私の関心は「そもそも『行動を行為にする』ことが必要なのはなぜか」ということにあり、ここまでのことに引きつけて言うとすれば星野の言う「曖昧さ」や「不純さ」は必要であるにしてもそれをリズムや速度という極めて質的な、強度のようなものから考えることを可能にするのではないか、と思った。後半(「ここまでのことに引きつけて言うとすれば」以降)はいま思った。

この本、『美学のプラクティス』は三部構成であり、第Ⅱ部「関係」と第Ⅲ部「生命」のはじめの文章はまだ読んでいないが、なんだかお腹がぎゅるぎゅるするし、そろそろ同居人が「寝よう。」と言ってきそうな気がするので今回はここで一旦終わろうと思う。久しぶりに滑らかに本が読めた気がして爽やかな気持ちである。では。次の一句を思い出した。別に忘れていたわけではないが。

さはやかにおのが濁りをぬけし鯉
皆吉爽雨

推敲をした。やっぱり同居人は言ってきた。「寝よう。」と。「眠たい。」と。私は言った。「あと少しだけ待って。」と。「あと少しってどれくらい?」と聞かれた。十五分くらいと答えた。ちゃんと十五分に収まりそうである。書き足したいことや書き直したいところはたくさんあったが、私も眠たいので今回はふんわり浮かせておこう。「濁り」をぬけることができるのは「濁り」が実は濁りの集まりであり、それはバラバラの位置を水の中で占めているからである。爽やかさというのはこのバラバラ性によって可能になっているのである。

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