断片集だから助かった(あるスピン)

『カフカ断片集』(新潮文庫)が読みかけだ。スピンがある箇所に挟まっている。その箇所というのは64頁と65頁の狭間である。私は読み進めようと思い、いやもっと曖昧にここを開いた。この本はタイトルの通りカフカの断片が(基本的には)一頁に一つ載っている本である。私は仕事前にその狭間を開き、「ああ、なんと示唆的なことよ。」と曖昧な感想を述べたが、ここで少しだけその曖昧さをスピットしていきたい。そのために二つの断片を引用する。

以前のわたしは、自分の問いかけになぜ答えが返ってこないのか、不思議だった。
今のわたしは、なぜ問いかけることができると信じていたのか、不思議だ。
いや、信じてなんかいなかった。ただ、問いかけてみただけだ。
64頁

歓喜する者も、溺れる者も、ともに両手を上げる。
前者はこの世界との調和を表し、後者は葛藤を表している。
65頁

後者のほうがわかりやすい断片であると私は思う。もちろんそこに含意されていることはさまざまであるだろうが、そのことがわかりやすい断片であると思われる。それに対して前者は少しわかりにくい。構造だけ取り出すとすれば、「わたし」が「以前」から「今」に変わったと言って、その「変わった」を解釈から解き放っている、そんな構造になっている。

ワカタ!

同居人に「歯磨きに行こう。」と誘われた。眠かったし今日はこれくらいにしておこう。

ちなみに私は前者のほうが好きである。いや、「好き」というよりも「わかる」感じがする。ただ、私は私がただ単に言ったこと、もう少し広くすればしたことに「問いかける」こと、それ自体がわざわざなされているのではないか、みたいに思うことに重きを置いているので、「ただ、問いかけてみた」みたいな、ある種の無責任というか、ある種の言い訳というか、しかしそれらがそもそも存在しない地点を暴力的にでも作っていくというか、そんな感じの見方をしたことがなかった。わけではないと思うが、それがメインではなかった。

ぷつん。

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