飲み会前に大きな本屋に行く
さっきまでfrom雑談というポッドキャストの#77をきいていた。1時間53分もある、そんなポッドキャストをきいていた。移動しながら、ご飯を食べながら、きいていた。私はポッドキャストをきくのが苦手で、というかそもそも人の話をきくのが苦手で、けれどもきいていた。
電車を待つ私は鷲田清一『想像のレッスン』を読みながらその筆致に冬の曇り空の柔らかさを感じていた。
そして電車が動き、私は一旦本を閉じ、そこできいた話を思い出していた。
このポッドキャストのこのエピソードでは室越龍之介とメチクロという人が話している。私の記憶が間違っていなければこのコンビは三回目である。今回の二人の話は結構哲学的なタームが使われていた。だからなんとなく、前の二つをあんまり覚えていないがとっつきやすかったように思われる。
ただ、正直あまり覚えていることはない。やっぱりながら聴きはよくないのかもしれない。しかし、ながらでしないなら「聴く」よりも「読む」をしたいという気持ちは強い。別に「パロール」より「エクリチュール」が、「話しことば」よりも「書きことば」のほうが偉いとは思っていない。(デリダの話、「パロール/エクリチュール」の話をしていた。このエピソードでは。)ただ単に「書きことば」は行きつ帰りつができて、私の受容、思考、表現、生活にはそれがおそらく本質的なのである。そんな感じのことを聴きながら思っていた。
結構頑張って思い出そうとしているのだがあまり思い出せない。このエピソードのタイトルは「実存と公共性」である。主な話のテーマは「品」であった。もちろんそこまでの助走を丁寧にしていて、ニーチェやサルトル、いわゆる実存主義哲学の話を用いて丁寧にしていたからこそこの長さになったのだろうけれど。
思い出した話から書いていこう。全体の主張なんてもはや覚えていない。別にこれは二人が悪いわけではない。さらに言えば私が悪いわけではない。このようなことを求める規範が悪い。わけでもない。おそらく。
まず最初らへんにしていた(別に時系列で振り返る気はないが。)のは、社会規範を内面化した上での逸脱とありのままが逸脱になることの関係の話である。そして、このエピソード全体の軸として前者の逸脱をする者のことを「平凡」と、後者の逸脱をすることになった者のことを「非凡」と呼ばれている。
急に解釈に入ってしまって申し訳ないが、後者を「する」ではなく「することになった」とするのは私の、工夫、と言えば聞こえはいいが、実態に合わせようとするならば気遣いである。この気遣いからわかることがいくつかあるように思われる。
結局二人は「非凡」の側に居ることになる。それはなんというか痛ましい自己意識としてそうしているというよりも状況的にそう判断されることからそうなっている。と二人は言っている。それが正しいどうか、私はあまり興味がない。私が興味を持っているのは「非凡」からの「平凡」しか話されていないのではないか、ということである。
もちろん、私はたくさん聞き逃しているだろうし、たくさん忘れている。もちろんそうだ。しかし、この条件を失うことはできない。そのことを私は最近学んだばかりである。そのことを確認するのはここでの本題ではないし、それを確認すると話がそちらに行き過ぎてしまうと思うので今回はやめておこう。『ひとごと』という本の「まえがき」で私はそのことを学んだ。いや、名目的にはそこで学んで、実際的には『ひとごと』全体で学んだ。学んでいけるという自信、そして学んでいく態勢をかなり身につけたと思っている。
「平凡」な人は「社会規範を内面化した上での逸脱」をすると二人は言う。しかし、その「内面化」は結局行動によってしかあらわれない。いや、行動によってすらあらわれない。あらわれるとすれば、その行動が「社会規範を内面化した」からこそなされたものであると解釈される必要がある。「非凡」な二人はその解釈をしているのであるが、そのことがなんだか、私には引っかかったのである。
別に「引っかかった」というのは「よくないだろ!」と思ったということではない。ただ単に「引っかかった」のである。
いろいろな話を飛ばして言うなら、というかいまはそれしか言えないのだが、「非凡」も結局「社会規範」によって存在するしかないという点では「平凡」と同じではないか、と思ったのである。それが「社会規範を内面化」しているからそうなのか、それとも「社会規範」が外からあてがわれているからそうなのかはいかにしてわかるのか、私にはそれがわからなかったのである。おそらく。
このあたりの話を聞いているとき私は永井均『これがニーチェだ』のことを思っていた。いくらニーチェがキリスト教道徳を批判しようとその批判自体がキリスト教とは違う形で存在することができるわけではないのではないか、みたいな、雑に言えばそんなことが言われている。言われていたはずである。それと同じことがここでは起きているのではないか、みたいなことを思ったのである。おそらく。
次の話に行こう。次の話は簡単に言えば、「物語なき公共性」の話である。ただ、私は正直この話がよくわからなかった、というか、「物語あり」であることがいまだによくわからないし、そもそも「公共性」の部分は聞いていなかったのか?というくらい忘れた、というより覚えていない。
タイトルが「実存と公共性」だから、私は半分わかっていないことになる。まあ、半分もわかっていたら上等だと思うが。
ああ、あと、メチクロさんが自分は他人をコントロールするようなコミュニケーション戦略を取っている、というか、そういう戦略を取ることになっているから「品」はないのかもしれないが室越さんが言うような「公共性」はあるのかもしれない、みたいなことを言っていた。ただ、私は「公共性」がわからないのでとりあえずコミュニケーション戦略としてのコントロールみたいな話しか聞けなかった。その話を聞いている時点ですでに「あ、公共性の話聞きそびれた。」と思ったのだが、まあ神経質になりすぎるのもよくない、というか、最近のテーマはそうならないことなので聞き流すことにした。
で、そのコミュニケーションとコントロールの話だが、私は最近「Q&Aと自己分析と対話未満」という文章を書いた。そこでこのように書いている。
メチクロさんは「場」よりもむしろ「相手」に「支配」を向けていると言っていたからその違いはあるかもしれないが、似たようなことをしているとは言えるだろう。私も「相手」と言っているところもあるし。あと、違いで言えば、メチクロさんは、自分はコミュニケーションに遅効性の支配毒みたいなものを混ぜてコミュニケーションしがち、みたいなことを言っていたが、私はそんなことはしない。というか、しているにしてもしていないにしてもわからない。そんなスケールの大きいことは。
「物語」の話を急にするが、「物語」には余白が必要である。というか、余白のない「物語」があるにしても、それがことばによって作られたものなら余白は生まれてしまうし、映像によって作られたとしてもカットがなければ人生と同じ長さになって相当短い人生しか「物語」にできないし、とにかく余白があるからこそそれを埋めるものとして「物語」が必要なのである。だから、仮にスケールのあることをメチクロさんがここで語ろうとしているのならば、考えるべきはむしろスケールと「物語」の関係なのではないか。
私がこのように思うのはメチクロさんが反「物語」的というか、「断片」肯定的というか、そんな感じがする主張をしていたように思われるからである。ただ、これは「思われる」、くらいであり、それが正しいかどうかはわからないし、自信は全然ない。ここまでも別にないが特にない。
さて、こんなことを書いているうちに都心に来た。大きな本屋さんがあるからぷかぷか漂おう。
さて、ぷかぷかした。たまに留まっていた。留まってしまった。しまった。『勉強の哲学』の文庫版の補章を流し読んでしまった。すみません。
まだ二時間半もある。はやく来すぎた。
ポッドキャストのことを思い出すやつを続けよう。
いや、その前に座る場所を探そう。外は寒いし、どこかにスポッと座ろう。スポット。
座る場所、見つけた。イヤホンを外そう。少しのあいだ。とりあえず少しのあいだ。
最近イヤホンの充電器の調子が悪い。から充電したと思っても、そのしるしがあっても、充電されていないことがある。
みんな静かに擦り合わせとして、一つの襞の証明として歩いている。歩いている。だいたい一人で、二人で来た人、三人以上の人はいまのところ見ていない。まあ、本を見ているからそりゃそうなのだが。
竹村和子『愛について』があったら買おうとしていた、と思っているが本当にあったとして、実際はなかったのだが本当にあったとして私は買っていただろうか。それは非常に疑わしい。
ポッドキャストを思い出すよりも本を読みたいのだが、万引きしたと思われたらどうしよう。上着のポケットに入れてこの店に入ったのだが。別に疑われるのは構わないが、監視カメラを確認されたらよくないことをしているような気もする。立ち読みは実際していたわけだし。
なので仕方なく、本をポケットに入れながら、クリスマスソングを聴きながら、この本屋を歩こう。まずは哲学書の棚。さっきまでいたところに一旦戻ろう。
戻りながらもしかすると何かについて考えるかもしれない。わからないが。
横に座っていた人が読んでいたものを棚に返しに行った。なるほど。
なんとなくちくま文庫の棚に来た。
『想像のレッスン』置いてある。オーマイガー。
哲学の棚に移動する。私の鞄のなかには『現代思想』(鷲田清一特集)、『現実性の問題』、『ひとごと』、『傷を愛せるか 増補新版』が入っている。
私は最近「私はなぜ短歌を詠めないのか」と私自身に問うたが、『勉強の哲学』の補章によるとそれは短歌が「私」の物語であるからである。いや、おそらくそれ以上に俳句(私は「短歌」と「俳句」の関係を考えるなかで上の問いを出した。)が「写真」的だからであろう。いや、それでは答えになっていない。
とっくに哲学の棚に来ているが、誰もいない。見事に誰もいない。踏み台だけが一人ぼづんと居る。
誰か来るまでここにいるか。
足がしんどい。し、誰か来たところで何ということもない。さっきいたときは三人くらいかな、多分来ていたのだけれど、別になにもなかった。当たり前のことだが。
それにしても、『愛について』がないのは珍しい。この大きさの書店で。空隙もいくつかあったから、もしかすると誰かが買っていったのかもしれない。
そうこう、ぼーっと棚を見上げているうちに二人来た。こんなことは覗き趣味が過ぎるかもしれないが、なにを手にとっているのかが気になる。
二人とも結構長い滞在で、私はそのあいだに藤野寛『キルケゴール』の「あとがき」を読んだり、一人が『現代思想』の大森荘蔵特集を手に取ったことにびっくりしたりした。
一人はどこかへ行き、二人組が入ってきた。
言い訳したいわけではないが、別に私はその人がとった『現代思想』を確認しに行ったわけではない。私も読んだことがあるからわかっただけである。二人ともどこかへ行った。いや、一人と一組はどこかへ行った。
どんどん暑くなってきた。寒いから厚着してきたのだ。一旦外に行こう。哲学の棚は静かだったのだなと思う。検索機がある。『愛について』を検索してみよう。
この本屋にはなかった。独特の遅さを持つ機械に私は事実を提示された。
左足の膝より下の前側の筋肉が痛い。なにもした記憶がないのに。
涼しかった。しかしすぐ寒くなった。依然として三人組は見ない。もちろん四人組も。
写真論を読みたい。などと思ったが、論だと結局文章だから、と変な躊躇があった。
三人組を見かけるまでなにも書かないでおこう。飲み会までに。まだ一時間半はある。優にある。音楽を聴く。もしかしたら本も読む。
びっくりするくらい三人組がいない。三人で居るグループはあった。子供二人と母親、みたいなグループは三つくらいあった。書きたくなったのでそれも三人組であるとみなすことにした。ちなみにあと三十分くらいで飲み会はスタートする。
なにをしたのか書いておこう。まず、アルバムを聴き漁った。『KJ SEASON2』『I am Special』『ROBIN HOOD STREET』を聴いた。いや、最後のものはいまも聴いている。が、右のイヤホンが充電できていなかったので左耳だけで聴いている。だからまたもう一度ちゃんと聴きたいと思いながら聴いている。
他にしたことは特にないが、普段行かないコーナーにどんな感じの人がいるのかを見に行った。なにも覚えていない。見事に。
ぬくくてねむたい。
他にいくつか、なにか重要そうなことを考えた。そんな記憶はある。が、これは作られたものかもしれない。
ああ、服は皮膚である、みたいな話をしていたと誰かが話していたことをなんとなく実感した。ただ、
三人組がいた。普通に前を通った。今回は終わろう。