ラジオを聴くとはどういうことなのか

私はラジオを聴くのが苦手である。果たしてそれはなぜなのか、それを考えてみたい。

まず、二つのことをしておきたい。一つは私が聴いているラジオを並べることである。なぜなら、聴いているラジオの種類によって苦手である仕方は異なるだろうからである。もう一つは重要だと思われるキーワードを並べることである。なぜなら、この苦手には色々な問題が含まれている予感がするからである。では、聴いているラジオを並べてみよう。

聴いている頻度順(大体)で行けば、①ゆる言語学ラジオ、②哲学の劇場、③ゆる哲学ラジオ、④コテンラジオ、⑤マユリカのうなげろりん、⑥from雑談、⑦知らねえ単語、⑧霜降り明星のオールナイトニッポン、⑨ゆる音楽学ラジオ、⑩令和ロマンのご様子、みたいになるだろう。他にも聴いているラジオはあるにはあるが、ここに挙げたやつよりは頻度はガクッと落ちる。ここに挙げたラジオを分類しておくと、大きな分類としては教養系、お笑い系に分けられるだろう。教養系は①②③④⑥⑨⑩、お笑い系は⑤⑦⑧⑩である。また、さらに大きな分類軸として話している内容に関する分類と話している仕方に関する分類に分けることもできるだろう。教養系とお笑い系という分類は話している内容に関する分類である。もし、話している仕方を雑談系から非-雑談系(いい用語が思いつかなかったので否定接頭辞をつける定義にした。)のスペクトラムで示すとすれば、⑥⑤⑦⑩⑧②⑨①③④みたいになるだろう。多少の解釈の違いはあるかもしれないがおおまかには。これを用いれば、教養系のうちのスペクトラムやお笑い系のスペクトラムも示すことができる。一応示しておこう。教養系は⑥②⑨①③④(左がより雑談的)、お笑い系は⑤⑦⑩⑧(左がより雑談的)ということになる。

さて、大体私が聴いているラジオとその感じがわかったところで、次は重要だと思われるキーワードを並べてみよう。箇条書きにする。

・別のことを考えてしまう
・聞き逃してしまう
・別のことを考えたくなってしまう
・興味のないことだとつまらなくなってしまう
・考察を始めてしまう

たくさんありすぎても困るのでこれくらいにしておこう。これらをとりあえず分類してみよう。私には分類癖があるのだろうか。

まず、すべてに「しまう」が付いている。これが意味するのはこれらが受動的に起こるということである。ラジオを聴いていたら別に起こそうとしていなくてもこれらのことが起こるのである。このことを踏まえた上で、これらを見てみると、これらは簡単に言えば集中力がないと言えると思われる。しかし、その「ない」形態が異なるのである。その大きな異なりは聴こうとしているか、それとも考えようとしているか、の違いであると思われる。「聞き逃してしまう」というのは「聴こうとしている」のにそれができないという意味で「集中力がない」と言えるだろう。それに対して「別のことを考えたくなってしまう」とか「考察を始めてしまう」とかは「考えようとしている」のにそれができないという意味で「集中力がない」というか、むしろラジオによって「集中力が削がれている」と言えるだろう。「別のことを考えてしまう」というのは極めて広いことなので難しいが、「聴こうとしている」のに他のこと、例えば行き先のこととか(私は大抵移動中にラジオを聴く。これもかなり重要なことかもしれない。あとで考えるかもしれない。)、そのとき重要だと思う出来事のこととか、はたまた生活のこととか、そういうことを考えてしまうということでもあるし、「考えようとしている」前兆でもある。なのでとりあえずそういう大きなところを指していると考えよう。あとはなんだ、えーっと、「興味のないことだとつまらなくなってしまう」か。これもおそらく「考えようとしている」のに自分が「考えようとしている」こととは別の方向に話が進んで「集中力が削がれている」ことであると考えられるだろう。とりあえず、私はこれらが起こるからラジオを聴くのが苦手なのである。

じゃあ、「考えようとしている」ときにはラジオを切ればいいのではないか?と思われる人がいるかもしれない。私もそのように思う。しかし、ラジオには流れというものがある。グルーヴと言ってもいい。そういうものがある。それを感じようとしてラジオを聴いている側面もあるのだ。「〜しようとしている」という形式に沿わせるなら「感じようとしている」という側面もあるのだ。これはどのラジオを聴くときにも重要である。というか、わざわざラジオを聴くのはこれを求めているからなのだろう。そうでなければラジオを聴く意味などない。もちろん、パーソナリティに惹かれることもあるだろうし、構成とか掛け合いとか、そういうことに惹かれることもあるだろう。しかし、それらはすべてグルーヴを感じることの一部なのである。少なくとも私はそう思う。だから理想はグルーヴに乗って考えたり、グルーヴに乗って笑ったりすることなのである。しかし、私はそれがうまくできない。どうにも乗れないのである。グルーヴに。

この「流れ」や「グルーヴ」を「感じようとしている」という側面から上の五つのことを再考察してみよう。忘れた人や見に帰るのが面倒くさい人がいるかもしれない(私もそうである。)のでもう一度提示しよう。

・別のことを考えてしまう
・聞き逃してしまう
・別のことを考えたくなってしまう
・興味のないことだとつまらなくなってしまう
・考察を始めてしまう

「感じようとしている」という側面からすれば、この「しまう」というのは「乗れない」ということであると考えられる。ここでここまで大して区別していなかった「流れ」と「グルーヴ」を区別しよう。「流れ」というのは話の順序のことである。言うなればチャプターでぶつ切りにできるような順序のことである。これは大きなぶつ切り、小さなぶつ切り問わず、話を順序として並べること、言うなればそのラジオの制作に関わる視線である。「グルーヴ」というのは「流れ」によって生み出される効果であり、そのとき「流れ」は後景化している。その効果は一般的な形である程度は示されるが、本質的には私と、それを聴いているときの私との関係で生じるものである。ここでの一般的な形というのは上で書いたような「パーソナリティ」や「構成」、「掛け合い」のことである。そのラジオを聴いている人ならある程度わかることである。それはある程度は示すことが可能だが、「グルーヴ」に乗ったときになにを生み出すか、そして「グルーヴ」自体は私にしか実感できない。あまりちゃんと区別はできていないと思うがこのような感じの区別が考えられる。

さて、この区別は何のためになされていたか。そう、「『感じようとしている』という側面からすれば、この『しまう』というのは『乗れない』ということであると考えられる」というのはどういうことかを明確にするためである。「流れ」と「グルーヴ」を用いて考えるなら、「考察を始めてしまう」というのは「グルーヴ」を「流れ」に差し戻してしまうということだろう。そこに意図を見るにしても見ないにしても、そこでの「グルーヴ」を感じることではなくラジオそれ自体を対象として考えることが「考察を始めてしまう」ということである。「別のことを考えたくなってしまう」というのもラジオと自分を分離しているという意味では「考察を始めてしまう」と同じことである。しかし、そこではもはやラジオは眼中にない。ただのノイズになっている。「興味のないことだとつまらなくなってしまう」というのはノイズになるという意味では「別のことを考えたくなってしまう」と同じことだが、まだ「グルーヴ」に乗ろうとはしているという意味でラジオはただのノイズであるわけではない。乗ろうとしたのに乗れなくて残念な感じがそこには漂っている。「聞き逃してしまう」というのも乗ろうとしたのに乗れなくて残念な感じが漂っているという意味で「興味のないことだとつまらなくなってしまう」と同じである。ただ、「興味のないことだとつまらなくなってしまう」というのは次に来るだろう音、話が来ないことへの残念な感じが漂っているが、「聞き逃してしまう」というのはいま来ている音、話の来歴がわからないことへの残念な感じが漂っている。そして、それはわざわざ聞き直すと「グルーヴ」が崩れてしまうことへの残念な感じとも繋がっている。これは「グルーヴ」自体が「流れ」だけではなくその「流れ」がリズミカルに展開していることの現れでもある。もし、A→B→Cという「流れ」に沿って展開されればいつも「A→B→C」という「グルーヴ」を感じられるならこんなことにはならない。しかし、「グルーヴ」はもっと複雑で、Bを聞き逃したからと言ってBに戻ってももうCを聴いてしまっていることは覆せないのであり、AとCを聴いた私とAしか聴いていない私とでは別の私であることがここに示されている。

さて、「別のことを考えてしまう」だけが残った。これは大きな範囲を指しすぎていて、正直考えるのが難しい。私はこれまで私がラジオを聴くのが苦手なのは「別のことを考えてしまう」からだと思っていた。しかし、その中身はここまで示したようなことであったのであり、それは大掴みすぎたのである。私はいま、そのようなことがわかって、そしてある程度の分析ができて満足である。そして、疲れた。ただ、ここから二つの課題がある。だから「疲れた」と言ったのだ。やることがあるのにできないから「疲れた」と言ったのだ。その二つというのは「別のことを考えてしまう」の「別のこと」というのはどのようなことなのか、ということと冒頭で示した二つの分類の仕方とここまでの考察はどのように関わるのか、ということである。前者は「別のこと」と「異なること」はどう違うのか、ということが中心的な問いとなり、後者は「聴き入ってしまった」とはどういうことなのか、ということが中心的な問いとなるだろう。おそらく。また、ここまでの考察やこれらの問いによって駆動されるだろう考察が哲学的にどのような意義を持つのかということも私としては気になる。ただ、今日は「疲れた」のでおしまいとしよう。みなさんも私が使った枠組みを使ったり批判したりしてくれたら「グルーヴ」が生まれるかもしれない。もしかしたら。

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