あー、あの人ね、ああいう人だよね

さっき(と言っても四時間前くらいだと思うが)こんなことを書いた。(アルファベットはいま振った。)

A 私たちは他人と私を並べて「私たち」ということを考えるが、それが「過去の私」と「この私」と「未来の私」を並べて「私たち」ではいけないのはどういうことなのだろうか。もし、前者と後者をアナロジカルに捉えるとして、どちらかがそのアナロジーを導くのだとしたら、それはいかにして決定できるのだろうか。そもそも決定などできるのだろうか。

B 哲学が充実するというのは二つの偶然によって可能である。なぜか疑問があった。なぜか疑問にする仕方があった。この二つの「なぜか」がないことには哲学は充実しない。もちろん後者が前者を作るという側面や前者が後者を作るという側面があるというのはその通りである。しかしとりあえず、「よくわからなかった。」から「少しわかった。」に進むためにはなんにせよ二つの「なぜか」がそれである必要があるのである。

C 私の詩作は未来の私がいい読みを提示することで終了する。一旦終了すると言っても構わない。重要なのは未来の私がいい読みを提示するまでは名詩かそうではないかはわからないということである。もちろん、予感はあり、人間はそんなにみんな変わらないから明らかに名詩であるもの、そして明らかに凡詩であるものはある。

これらはどれも私が常々、とまでは言わないまでも時々、そして頻繁に考えていることである。さらに、それが素直な形で表現されている。ストレートに。

これを書いているときはたぶん『世界は時間でできている』を読んでいて、内容も軽くないし、体調が万全であるわけではないし、そんな感じで重々しい感じだった。気晴らしとして書いたのだろう。そういう爽やかさがどの文章にもある。

私の考えていることはおそらく、Aのような自他の関係性、Bのような哲学の充実性、Cのような詩作の実践性、みたいなことであり、だいたい最後はそこに行き着く。行き着いてしまう。それは私の限界というか、癖というか、偏りというか、個性というか、そういうものであるが、ここではそれらではなくそれを言う仕方、上で言っているようなストレートさについて考えてみたい。

なんというか、哲学を読んでいても文学を読んでいても、私と似たことを考えている人はいる。びっくりするくらいにいる。教えてもらうことも多々ある。ただ、最後には結局「では左様なら」となるのである。「たとふれば心は君に寄りながらわらわは西へでは左様なら」(紀野恵)となるのである。

というか、その次元にまで行かないと「他人と私」ということはわからない。それならむしろ「だいたい同じだろう」と高を括られている「過去の私」と「この私」と「未来の私」の関係のほうが「違うじゃん!」という驚きに繋がりやすい。しかしそれは言うなればファストフード的なのである。この感覚はもしかすると変なのかもしれないと思っているのだ。Aは。

Bについて言えば、私は優れた哲学者の議論を見ると、例えば永井均や入不二基義、千葉雅也や福尾匠、彼らの議論を読むと、「ああ、思ったことある。考えたこともある。」みたいに思うのだが、それに少し遅れて「本当か?真似しているだけなんじゃないか。」とか「本当か?センスがあると思いたいだけなのではないか。」とか思う。ただ、別にそんなことはどっちでもいいと思って、ゆったりゆったり付き合って、最後には「左様なら」となる。この不思議な感じ、ゆったりしているのか素早いのか、情熱的なのか冷徹なのか、よくわからないリズムやエナジー、それがBで言っているような「なぜか」が「それである」ということなのである。

私に特徴的なレトリックに「Aがそれである」というレトリックがある。これを私は結構使う。気をつけないと頻出してしまうので控える。それくらい使う。なぜ使っているのかは正直よくわからないのだが、Cも「名詩がそれである」ことについて考えているのかもしれない。そしてその領域で私は「名詩」があるのではなく「名詩にする」があるというある種の転換を行なっている。ただ、私はそれを「おそらく転換であろう」くらいにしか思っておらず、端的に言えば自信がない。他人がどう思っているのかについて。だから少しひよって「もちろん、予感はあり、人間はそんなにみんな変わらないから明らかに名詩であるもの、そして明らかに凡詩であるものはある。」と言っている。ただ、上から継続している「ストレート」という感じを強めるとするならば、別にどっちでもいいけどこっちにしてみよう、みたいな遊び性が感じられて良いかもしれない。

実はAもBもCも『世界は時間でできている』に極めて抽象的に、そしてそれゆえに具体的に呼応したものである。だから普段の書きぶりとは少しだけ違っている。本当は「普段の書きぶり」なんてものはない、というかあるにしてもあることにしないといけないのでそのずれ、そしてもしかすると固有のズレであるかもしれないそれが「ストレート」をそれにしているのかもしれない。

結構適当なことも言っているし、書いた当初の私、いや精確に言えば、いまここで読んでみて「当初の私」として作られた私に憑依している私、からすれば、ここで書かれていることは適当だし、センスがある感じはあるが、ただ真似しているだけに過ぎない感じがする。ただ、実直であることが重々しくないことはとても素晴らしいことだと思うので今回はこれくらいにしよう。

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