先週の私に対する今週の私の考察①
さて、久しぶりに力を入れたものを書こう。私はあまり、力を入れて書くということがない。それはなぜか。簡単に言えば、私にとっては書くことは享楽であり、読むことはもっと享楽的であるからである。つまり、私は読む方が好きなのである。この話をすると長くなるので言い訳めいたことはとりあえず置いておこう。こんなふうに書き始めてしまったからここから書くものにもある程度の影響はあるだろう。このように書くとまた、まるでオイディプスが予言されたようにそれに知らず知らずに随うことになるかもしれない。まあ、とりあえず置いておこう。
ここで書くことのテーマは一つである。それは「先週の私に対する今週の私の考察」である。私は「文学」というマガジンに日付を付けて考えたこと(?)を書いている。先週ももちろんそれを書いていて、それはおそらく三万字くらいある。それを全部読んで、その感想を「今週の私」である私が書く。ただそれだけである。ここで留意事項を書き始めると長くなりそうなので、とりあえず読もう。印刷してきた。
さて、思ったよりも読むのに時間がかかることに気がついた。火曜日までしか読めなかった。次の予定もあるので簡潔に感想を書こう。
ここに書かれていることのテーマは簡単に言えば、「限界を発見する」ということである。このテーマに対して有益、少なくとも著者にとっては有益なモチーフがある程度リズム感を持って繰り返されている。個別具体的なことについて書くかは時間との兼ね合いだが、読んでいて書いた二つの文章をまずは確認しよう。
これが一つ目である。私はこの時期(と言っても一週間前なのだが) 『ジャック・デリダ「差延」を読む』という本を読んでいた。そして同時に『足の裏に影はあるか?ないか? 哲学随想』という本も読んでいた。ここで言われる「仕方なさ」というのは「限界を発見する」と言われる場合の「限界」の一つの形態である。そして、「発見する」というのはある意味で「対処する」ということであると思われるから、ここで言われていることは「限界を発見する」ということの一つの形態として「仕方なさ」に「対処する」ということがあり、その「対処する」ということには二つの仕方があるということである。
この形態はおそらく私(≒著者)にとっては典型的な形態であるから、少なくとも先週の月曜日から火曜日にかけて書かれていたことはこの二つの「限界を発見する」仕方に関することであったことになるだろう。例えば、次のような文章が月曜日に書かれている。
ここで言われていることは言うなれば「一面的な見方」は「仕方のないことのように思われる」ということである。そして、その奥には多性が一性に還元されてもなおそこには多性が現れてくるのだから、という理由がある。最後の「お説教」がなんたらというのは、誰に向けられたものだろうか。よくわからない。しかし、それよりも重要なことは「私たちには限界があるだろう。その限界を経験していない者たち、いや、経験していないことにしている者たち」という言い方である。これは言い換えれば、もうすでに「限界」を私たちは「経験」しているが、それを私たちは大抵「経験していないことにしている」ということを言っている。これはおそらく、反転したレヴィナス主義である。レヴィナスはむしろ「限界」ではなく「無限」を同じような仕方で言っている。が、言われ方自体は同じである。それはおそらく、この時期に『レヴィナス入門』や『他者と死者-ラカンによるレヴィナス』、『傷の哲学、レヴィナス』などを読んでいたからであろう。おそらくは無意識のうちに模倣してこれは書かれているのである。
さて、結構具体的な話をして、時間もなくなる一方であるが、もう一つの文章を確認しよう。
ここで言われているのは私の「日記」の形態である。私の「日記」は大抵三つのテーマ(それぞれA、B、Cと呼ぼう)をA→B→C→A→B→C……のように展開している。それが「輪唱」であると言われている。しかし、それは「単線的かつ目的的なそれではない」とも言われている。これは例えば、初めのA(これももちろん原初のAではないが)と次のA(だからこれも「初めのA」と呼ばれうる)は後ろと前がそれぞれ異なるから異なるものであるとも言えるということである。もちろん、A自体の変容もあるが、それよりはむしろAの前と後ろによって変容する仕方の方が大きい。そして、これは別に何かに向けてなされる変容ではない。そのように理解したくないのではなく、そのようなものである。これが「目的的ではない」ということである。「単線的」ではないというのは、上で言われている「原初のA」と「初めのA」という問題に加えて、いまは分かりやすく説明するためにA→B→C→A→B→C……というふうに並べているが、C→Aの間にBが入ることやDが入ること、またはA、B、C、Dのどれかもしくはどれもが全体にうっすら、それこそ通奏低音のように聞こえる場合もあるということである。
さて、ここに書いたものの他にも結構面白い構想や考察もあったが、それに触れていると、それこそこの文章も「輪唱」化してしまうので、今日はここでおしまいにしよう。楽しかったのでまたやろうと思う。
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