括弧つきの言葉
括弧付きの言葉を書いてしまう。
これは私の大きな悩みである。
私の中では一応、普段使われている仕方ではなくこの文章のこの文脈で読んでほしい、ということがあるのだが、それをするとどうしてもうるさくなってしまう。
なにせ、文章はその文章の文脈で読んでほしい、ということ以外で書かれないからである。
ここに「括弧のパラドクス」と私が呼んでいるものがある。
括弧をつけて目立たせたいのだが、そんなことをしてしまうとすべてそうしたくなるのである。
このことに対抗するためには括弧を使うべきものとそうではないものを選別する必要があるだろう。
まずは選別できていない例を出そう。
「快楽」とは「私」を「美しい」の前に「奉納」できたことを言うのである。
たくさんの括弧、四つもこの短い文で括弧を使っている。
これでもおそらく「読書の本質」を読んでくれた人にはある程度伝わっていると思う。
さて、これは「良くない」のだろうか?
突然疑問が湧いてきてしまった。
この「括弧」は良くないのだろうか。
私がそれを「良くない」ものとして考えるのは、それが明確になっていない時である。
つまり、「なんでこれ括弧ついてんの?」とならない時には別にどちらでも良いのである。
しかし、括弧に比例して独白度合いは強まっていくとも言えるかもしれない。
括弧と独白には関係性があるのだろうか。
いつも通り話が展開してしまっている。
論理はとうに忘れられ、今ここにあるのは「私」だけである。
私が括弧と独白に括弧をつけようとしているのである。
もしかすると「私」というのが唯一成功している例なのかもしれない。
「私」というのは私という憎い同一性を解体してくれる断片としての、作品との出会いとしての私のことである。
わざわざこんなことを毎回書いていたら苦しいので、やはり「私」があることはありがたい。
このように「経済のための概念」を括弧付きで書くのは良いかもしれない。
ということは、括弧付きで書いても良い概念というのは「経済のための概念」ということになるのかもしれない。
しかしもう一方で「思考のための概念」、つまり私たちの思考を触発するためのものはどうなるのだろう。
私としてはそれらは拠点になるから括弧付きにすることが必要になると思われる。
ということでまとめると二つのことから括弧付きの概念は必要であると今の私は考えている。
一つは経済的な理由のため。簡単に言えば、全部言うと長いから括弧をつけて一語にそれらを含有するため。
もう一つは括弧をつけることによって、「このテーマで書いてますよ」とか、「このテーマで考えよう」とか、そういうことが明らかになるようにするため。
どうだろう。
わかりやすくなっただろうか。
私としては「独白」の方を考えたかったのだが、何故か括弧が付かなかった。
また考えてみよう。